2020.04.02
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

強く波打つとも水嵩は増えはしない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第11回
訳・文:野村正次郎

大きな仕事は長期的に実現していく

短気を起こしても成し遂げられない

大きな川はゆっくりと遠くへ流れる

強く波打つとも水嵩は増えはしない

11

本偈は目的実現/目的達成には長期的視点が必要で、短絡的な思考では目的は実現しないことを説いている。

それでは具体的な目的とは何か、といえば、下士であれば、来世に善趣に生まれること、中士であれば輪廻からの解脱、上士であれば一切相智の獲得と三種に分類することができる。求道者は、これらの目的を達成するため、大きな川のように長期的な計画で、ゆっくりと海に遠くへ向かわなければらないのであり、その過程でどんなに激しく強い波が立とうとも、短絡的にその旅を諦めたりするべきではない、ということをこの偈は説いている。このことについては、アサンガ(無着)が弥勒武仏を成就するために12年間の修行をした逸話を参照するとよいとされている。(該当部分を訳出していたら、随分と長くなったので別稿とします)

本偈で我々が注意しなくてはならないのは、ここで「仕事」と訳したものは、「為すべきこと」「所作」とも訳すことができる、ということと同時に、仏教はもともとインドの宗教であり、目的実現型というか目的達成重視の宗教である。

サンスクリット語の「アルタ」(artha)という言葉は、「目的」「用途」「意味」「実利」「対象」といった意味をもっており、チベット語もこれに対応する「トン」(don)という言葉があり、サンスクリットとチベット語は一対一対応しているが、漢訳ではこれを「義」「利」「境」「用」「為」などと訳している。「利」「用」と訳している場合には、何らかのよい性質ないしは利益をもたらすようなもののこと、さらにはそれを目的としているものを表している。たとえば、釈尊は「シッダールタ」(siddhārtha)というお名前であったが、これは「目的を実現している者」「自利・利他を究竟している者」という意味である。

たとえば「自利」(svārtha)・「利他」(parārtha)というものは、どういうものか、といえば仏身の自性身・智慧法身は「自利を円満にしたもの」「自分の目的を達成しているもの」という特徴を持っている。具体的にはそれは何かというと、真実を理解し(証円満)二障を断じている(断円満)の二種類である。「利他を円満としている」とは五つの決定を有している受用身と説法や衆生済度を行うための変化身を指している。仏の三身という場合には、法身・受用身・化身の三つを表し、仏の二身という場合には、法身と色身(受用身・変化身)の二つとなる。法身と色身は我々の精神と身体が進化した形である。また「アルタ」(artha)「トン」(don)が「義」や「境」の場合には、知と対象の関係にある対象、もしくは名辞と指示対象のうちの指示対象のことを表している。これらは知や言葉が向かっていく先の対象のことを表しており、実在領域にリアルに存在しているものである。たとえば「名称とアルタが一致している」ことは、「名実を共にする」(ming don mtsun pa)というような意味となる。

仏教の教義上では、人生の目的・意味とは、在家であろうとも、出家者であろうとも、戒・定・慧を学び、善業の修習を繰り返し、来世で善趣に生まれること、輪廻からの解脱、一切相智の獲得といった目的達成へ近づくことにある。

もしも水嵩が増えるのならば、この人はすぐに流されてしまう

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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