2020.04.01
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

悠然と静かに流れる大河のように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第10回
訳・文:野村正次郎

継続した精進をやめないで

徐々に実現すればすべては成る

悠然と静かに流れてゆく河が

広大な大地を巡っていくように

10

チベットは世界の最大の水源である。チベットを水源とする長江、黄河、メコン、インダス、サルウィン、ブラフマプトラといった主要な河川は、十ケ国に流れ、十三億人以上の人たちの生命の水となっている。これらの長さを全部足し算すると24000kmくらいになり、地球の半周以上の長さの川がチベットから流れ出している。

チベット問題は、世界の環境問題のひとつでもあると言われるのは、このように非常に長い川の源流がチベットにあり、それによって世界の人口の40%くらいの人が水を享受していることにも由来している。上流が汚染されたり、ダムによって堰き止められたりすると、下流に住んでいる人たちは大変なことになるのである。日本でいちばん長い川である信濃川でもたったの360キロ程度なので何千キロという長さの川を通常日本では見かけることはない。黄河や長江を見慣れた中国人は、瀬戸内海をみても海であるとはなかなか認識できないようである。そんな日本人にとっては、地球温暖化によってチベット高原の永久凍土がかなり溶け、下流に住んでいる13億人の生活にも影響を及ぼしていることはあまり関心がないことかもしれない。しかし黄砂は西日本の空を黄色にするのであり、その黄色は、ゴビ砂漠や黄土高原から砂が飛んできている。世界は狭くなり、人々が往来することによって今回も感染症は世界的な規模となり、既に世界中で42,158人の方々が亡くなっている大変な危機的な状況にある。

現在のように新型コロナウイルスの感染症が拡大しつつあると、人々は病や死について考えざるを得ない状況になる。日本の僧侶で新型コロナウイルスの感染症のことをこれは仏教でいうところの「怨憎会苦」であると言っていたが、これはあまり正しくない。

「怨憎会苦」というのはあくまでも同一の居住空間に複数の衆生が生活している以上、敵対的な衆生に遭遇する可能性があることの苦しみを指している。敵対的な衆生と遭遇することは不快であり、敵対的な衆生によって危害を加えられる可能性があるので、敵対的な衆生に遭遇する可能性があることは苦しみなのである。現在我々が問題としているウイルスは生命体ではなく、無生物なので敵対的な衆生とは言い難い。しかるに敵対的な衆生ということにはならないので、現在我々が直面しているのは「怨憎会苦」ではない。

それでは「病苦」というのはどういうものか、これは『菩提道次第論』では次のように説かれている。まず「病」というものはまずは(1)「身体的のもつ性質が変化」であるとされ、その変化そのものが苦しみである。筋力が弱体化することなどが、これに該当する。次に身体的性質に変化が起こることで、(2)「苦痛や不快感に対する感受作用が増加する現象」も病苦のひとつである。身体の均衡がくずれることで、苦痛が発生したり不快感が増したりすることである。さらに(3)「快楽の対象を享受したいと思わなくなること」も病苦のひとつである。食欲が減退して、体力が衰弱するのはこれに該当する。次に(4)「不快な対象を望まないにも関わらず享受しなくてはならないこと」も病苦のひとつである。苦い薬を飲まなくてはいけなかったり、切開手術をしなくてはいけなかったりすることがこの実例である。そして(5)「命根と離れなければならなくなること」つまり死に至る速度が加速することが病苦のひとつである。身体的な変化によって命根の働きが弱体化し、身体と精神との連結力が失われることである。感染症という身体の変化は「病」であり、それは苦しみではあるが、ウイルス自体は無生物であり、家やパソコンと同じように「行苦」であるが「病苦」ではない。

そして重要なことは「死」の直接原因は「病」でも「老」でもなく、「生」にある。死にたくなければ、生まれなければよいというのが仏教の基本的な考えであり、「死が滅する」ためには「生が滅する」というのが十二支縁起の基本なのである。「病」とはあくまでも身体的なものであり、それが死に至ったとしても、今生の友や肉体に別れを告げるだけ驚くべきでもないし、恐怖ではない。実際私たちは毎日少しずつ身体的な性質の変化をしているが、毎日恐怖で慄いているわけではないだろう。

仏教では貪・瞋・痴の三毒の煩悩による病の方がより重篤な症状であるという。何故ならば今生の身体を捨てて別のところに転生しようとも、これまで積んできた業のそのすべてを継続して保有して様々な苦しみを享受しなくてはならないからである。

死と再生といった重篤な症状をもたらす煩悩を克服するためには、ひとつひとつ丁寧にやっていかなければならない。継続して努力をし、ひとつひとつ徐々に克服していけば、最終的には解脱の境地にたどり着ける。決して私たちは焦るべきではない。ダライ・ラマ法王もよくおっしゃっているが、仏教というのは、ひとりの人が一生でやることであったり、特定の民族が特定の時期に期間限定で実践してどうにかなるようなものではない。今生でできなければ、来世に続きをやればいいのであり、ひとりで出来なければ、善き意思をもつ友たちと助け合って実践すればよい。

呑気であるというのは、人間のもつひとつの美徳である。ゴペル・リンポチェも昨年「ア・マ・マ・マ・マ!」とおっしゃっていた。私たちは意識を変容して、現在のような大変な危機的な状況であるからこそ、焦ったり混乱することなく、敢えてのんびりゆったりと生きることは必ず出来ると思われてならない。

現在のような危機的な状況であるからこそ、緊急の対応はどうしても必要ではあるが、感染予防、治療法の臨床治験とひとつずつのことを成し遂げていかなくてはならない。チベットの川が遠い海へと流れてていくように、私たちが悠然と静かに流れてゆく河が、広大な大地を巡っていくように在り続けることができるとよいと思う。

チベットのカイラス山の麓のマナサロワール湖から2400km流れ、
ガンジス川に合流するヤルルンツァンポ(ブラフマプトラ川)

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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