2020.03.31
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

海中にいれば、海面で何が起きても大丈夫

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第9回
訳・文:野村正次郎

苦行をする重荷を負えるのなら

どんな仕事も苦ではないだろう

水のなかに潜ってしまうのなら

どんな雨も災いではないように

9

本偈は「苦行」すなわち忍辱や精進の功徳を説いたものである。

善業を行おうと決意し、はじめたからにはそれはどんな小さなことであろうとも実現しなくてならず、実現するためには、途中で諦めることなく、最後までやり遂げたいという志が必要とある。もしもその志があるのならば、実現の過程における小さな所行は、最終目標を実現するための苦労に比べれば、大した苦しみではないと思えるようになる。一度水のなかに潜ってしまえば、上からどんな冷たい雨や雹がが降ってこようとも、それを苦痛であると感じないのと同じであるということを表現している。

具体的に最終目標として設定されるものは、一切衆生を苦しみから逃れさせたい、それを自分が責任もって実現しよう、そのために一切相智である仏位を成就しようという菩提心によって目的とされる仏の境地が最終目的となる。

ここで「苦行」というのは、針の上を歩いたり、自らの身体を鞭で打つなどの過度な負荷を課すようなことではない。仏教は基本的に「中道」を主張しており、必要以上の贅を極めたり、必要以下の食事しか取らないで断食をしたりするなどしてはいけない、という立場にある。自らの身体というのは修行をするための拠り所なのであり、その身体自体は苦しみではあるが、断食をする等の行為は、身体内に寄生している多くの微生物を殺す行為にほかならないので、それは避けなければいけない。自害行為・自殺行為もまたこれと同じ論理によって、大罪となる。

人は夢や希望や目標を実現しようとするためだけでは生きてはいけない、お金や運や才能や他人の助けがないと何事も実現できない。まずは財産を築いて、生活に余裕がでてから仏の境地は目指せばいい、というような考えは極めて一般的なものであろう。しかし仏教ではこういう考え方は懈怠であると考え、目的実現のためにではなく、別のことをやるための言い訳に過ぎないという。私たちは毎日生き続けているが、生き続けていることは同時に死に続けている。今生における繁栄や輪廻における繁栄に甘い期待をすることをやめ、直ちに解脱や一切智を目指して修行しなければならない。

何か目標をたてて、はじめることは簡単であるが、それをやり続けることは極めて難しく、そして何かを実現することはもっと難しい。私たちは何かを実現しようとする過程で様々な困難に直面する。途中で様々な人が様々な意見を言ってくることもあるし、驚くべきようなさまざまな障害が降りかかったりする。何かをはじめる前から諦めている人もいるし、途中で諦める人もいる。人の希望や夢を挫いて、挫折させるものは自分自身であり、自分の敵は他所にない。他人というものは、自分が過大評価しているほど自分たちのことには注目していないし、自分が過小評価しているほど下らない存在ではない。本来他者による評価は、他者によってなされるものにも関わらず、我々は自分本位に自己評価し、その期待値通りのことを他人にも期待しがちな傾向にある。何かものごとがうまくいかないときには他社のせいにして、諦めてしまう者がどれだけ多くいるだろうか。しかしもしも自分がしたいと思う、自分が素晴らしい、と思うことを自分から諦めてしまい、一体自分以外の第三者が代わりに実現してくれる、という都合のいいことは起こらない。

人が真に夢や希望をもつということは、その夢や希望を実現するために決して実行しつつあることであると仏教は説いている。菩提心が最初に起こるときにイメージするものは「願心」の菩提心と呼ばれるが、菩薩行を実践している時の菩提心を「行心」の菩提心といい、強い動機、強い希望を持ち続けることの大切さをここでは説いている。

海中にいれば、海面で何が起きても大丈夫である

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