2020.03.31
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

草葉の露を掬び、運命に逆行する

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第8回
訳・文:野村正次郎

功徳をはじめて学ぶことは難しい

用心しないとすぐに失ってしまう

露滴をため溢れさせるのは難しい

こぼしてしまえば一瞬でなくなる

8

仏教は創造主の存在を認めない宗教である。世界は生命体の業によって生成され、業によって滅亡すると考える宗教である。人類が地上に存在するのは、煩悩と業に起因しているのであり、煩悩と業を断じれば、苦を本質とする輪廻世界から解放され解脱できる、とする。

生命体の死は、その生命体が有する業によって生成された寿命が尽きるということである。身体と精神との連接関係を命根といい、その連接が解除されることを死と称する。死を迎えた精神は、単体では活動できないので、再びその拠り所である別の身体を拠り所として求めなければならない。これを転生と呼び、身体と精神を合わせた生命体を輪廻と呼ぶ。有情・衆生・人(補特伽羅)は同義語であり、我々ひとりひとりが「輪廻」であり、「有情」であり、「プドガラ」(補特伽羅)である。

我々が目にすることが出来る地上の生命体、海中の生命体のすべてが「有情」であり「生物」である。ここには所謂植物は含まれない。植物が自分の意思をもって動いているかのように見えるのは、我々見ているその有機体に寄生している微生物の仕業であると考える。植物は大地から水分を吸収して自己の組織を維持するが、その水分の通り道はナーガ(竜)の棲家や通り道であると謂われる。ナーガは動物の一種であるが、言語をもち、釈尊の説法を聞きにきたりもする。釈尊の涅槃の後、ナーガたちは、分裂しつつある教団から、大乗経典を龍宮へと持ってゆき、また多くの密教経典はダキニーたちが持っていった。現在の地上に招来したのがナーガールジュナ(龍樹)である。

生命体と生命体が居住する空間との両方を「世間」(loka)と呼ぶ。「世間」とは「崩壊する拠り所」という意味で、そのうち生命体は「有情世間」と呼ばれ、その居住空間は「器世間」と呼ばれる。

地獄・餓鬼・畜生・人・天は「有情世間」であり、欲界・色界・無色界というものもまた有情世間である。これらは魚類・鳥類・哺乳類というのと同じように衆生の種類に過ぎない。太陽や月や星も有情世間であり、我々が通常見ている太陽や月や星は、そのような大きな体をもつ神々の身体に過ぎない。異なった種族の生命体が居住空間を共有することはよくあり、人類が動物たちと共生しているように、生命体としての地獄である衆生は、時には、我々人類とも共生する。昨日のダライ・ラマ法王のメッセージにもあったように、こうした世間は、生成期(成劫)・継続期(住劫)・崩壊期(壊劫)・不在期(空劫)の周期を繰り返し、人類の寿命が八万歳から百歳に落ち込んでいく時期には、ブッダはこの世に降誕し説法をする可能性がある。しかしその後人類の平均寿命は十歳まで落ち込み一度八万歳まで復活するが、その後、武器と疫病と飢饉によって継続期は終了し、その後の崩壊期(壊劫)では、火・水・風による崩壊が起こり、崩壊し終わった「空劫」と呼ばれる状態が一定期間続くこととなっている。

このような説は『阿毘達磨倶舎論』をはじめとする様々な文献に記されているが、我々と我々の住んでいる世界の運命は大変悲惨なものである。それは忌み嫌うべきものであり、それを厭う気持ちのことを「厭離心」「出離心」と呼ぶ。

しかしながら同時にこうした悲劇的な運命をもつ我々が、この巨大な輪廻の苦海から解脱できることをも説いている。解脱をするためには、業に変容を起こさなければならず、精神が変容して様々な善業を実施可能になっている特殊能力を「功徳」(guṇa ཡོན་ཏན་)と呼んでいる。この「功徳」の反対概念にあたるものが、「過患」(doṣa སྐྱོན་)である。仏教は創造主の存在を認めない宗教であるからこそ、「功徳」を究竟し、「過患」を滅尽させ、個体としての生命体の進化を目指す宗教なのである。

それでは個体の進化のために必要な「徳がある、徳を積む」とは一体どのようなことなのであろうか。私たちは、こういう言語表現を日常的にしていはいるが、「徳がある」ということはどういうことか、「徳を積む」とはどういうことなのか、あまり深くは考えていない。

ジェ・ツォンカパは「功徳の基」は「恩師」であると表現しているが、運命的悲劇に逆行する力は師から学ぶべきものであると謂われている。仏教における「学」とは、戒・定・慧などの三つの所学が思いつくが、これは習得するという意味で、古来漢訳では「学」と訳してきた。「学ぶ」「まねぶ」とは何かをお手本としてそれを真似することであり、「師から徳を学ぶ」というのは師のもつ徳をお手本として、自らそれを真似して自分にも身につけることにある。

本偈では草葉の露をあつめて容器を水いっぱいにするのと同じくらい最初は難しいと述べる。たとえひとつひとつ実現できるようになっても、用心しなければ、逆縁によって失われやすく、それは容器を揺らせばすぐに水は溢れてしまうのと同じであると説く。我々は無限の過去から悪業を行うことには習熟しているので、悪業を行うのは容易いが、善業を行うことには習熟していないので、最初はかなり困難が伴うのである。だからこそ、最初は自己の精神への監査体制の構築しながらやる必要があるというのである。

現代の消費社会において、学習や教育は、集団を形成した上で、情報やサービスを一斉に享受したり提供したりすることだと勘違いしている風潮もある。しかし本来は何かの能力を自らの精神で修養し、悲惨な世界の運命に逆行しようとする絶えざる反抗なのであり、それは極めて私的で自発的な精神的営為であると思われる。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。

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