2020.03.27
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

小河で泳ぐ、海を渡る

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第5回
訳・文:野村正次郎

小さな河さえ泳げない者

彼が大海を泳いで渡れるだろうか

品位ある行いもできない者

彼が諸法の実義を解せるだろうか

5

ダライ・ラマ法王がよく仰っているが、宗教とは我々がより幸せになるためにあるものであり、そのために心を変容させ、よりよい人間であるためにはどうしたらいいのか、ということを教育するものである。本詩篇は世間における高潔で品位ある振舞い、というのはどういうことなのか、という世間の教えと仏教の真実を説くものであるが、世間的な意味でのよりよい人間の延長線上に聖人というものは存在しており、聖人の延長線上に諸仏は存在している。諸仏には欠点は一切なく、すべての長所を備えているとも言われるが、世間的な高潔さや美徳のすべてを備えていることが理想とされているのであり、私たちはそれを目指して日々精進しなくてはならない。

諸法の実義というのは、無我や空性のことを指しているが、無我や空性を理解するためには、罪障を浄化する必要があるということがよく言われている。たとえば、自らを律して生きることができない者には、空は理解できないのであり、空を理解できないのならば、密教の実践などまったくできないものである、ということをチベットの先生たちは教えてくれる。たとえば仏教国で仏教に触れたことがある人なら、十善というのは誰でも知っていることではある。しかしながら十善をすべてきちんと実践するということは、それほど簡単なことなのではない。

たとえば不殺生ということだけにしても、不殺生戒を護持しようとすれば、正当防衛であっても他者を傷つけてはいけない。蚊に刺されようが叩くべきではないのであり、家の軒下に蜂の巣ができようが、決して害虫駆除という名目で殺生してはいけない。ましてや生きて泳いでいる魚を殺して、体をバラバラにして、死んで間もない状態を「さっきまで生きていたので活きがよくて美味しい」などと喜んでは不可いのである。

人生を無駄に過ごさずに、よりよい人間になろうとし、そのために日々少しずつでも努力していくことは実はそんなに簡単ではない。高潔で品位ある行動や言動や思考をするというのは、あくまでも世間的な美徳に過ぎないし、そのことによって解脱や一切智がもたらされるわけではないが、それすらもできなければ、諸法実相を理解して解脱することもできないし、煩悩障や所知障を断じて一切智者となることすらできないのである。解脱や彼岸というのは実に遠い場所にある。

人類史上いまだ太平洋を泳いで横断した人はいない。現在フランスのベル・コントさんが日本からサンフランシスコまでの横断に挑戦しつつあるが、まだ途上のようであるである。ベル・コントさんは既に大西洋の横断にこれに比べれば同じ哺乳類でも北極クジラは二百年以上の寿命が続く限り、泳げ続けることができる。しかしクジラとして泳ぐ年数はせいぜい数百年であろうし、通常仏になるまでに福徳資糧と智慧資糧とを三阿僧祇劫もの長き間積集しないといけないと云われているので、もし実際にそのように長い間海を泳ぐとしたら途方もない距離となるだろう。

仏教では精神というのは無限の発展の可能性をもつものであり、良すぎる、優しすぎる、慈悲が深過ぎるといったような限界のないものであるという。我々の日常での品位ある行いをすることでさえ、容易ではないし、そのような良い人間になるための修行には大変な時間がかかるであろう。最終的に仏位を成就した人に我々は触れることはできないが、すこし考えてみるだけでも想像不可能なくらい素晴らしきよい人格なのであろう。

ホッキョククジラ

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