2020.03.25
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

馥郁とした香水・美しい調べの善説

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第3回
訳・文:野村正次郎

馥郁とした澄明で浄らかなこの香水を

閼伽水とし仏前に陳べ 灑水とし撒く

どんな使途で用いても薫り善いものである

善説の物語もまた 常に美しいものである

3

11世紀のはじめにアティシャがインドからチベットに来た時、チベットの水が浄らかであることから、チベット人はこの浄らかな水を毎日仏前に供えたらいい、と助言された。それがきっかけとなり、チベットの家庭でも僧院でも、毎朝仏前に閼伽水を供物として捧げる習慣がはじまり続いている。食事ができれば、最初に仏前に捧げるのは日本の家庭でもやっているとは思うが、水を仏前に捧げるのは、アティシャに由来するチベット仏教の日常的な実践法である。

閼伽水は、通常は七つの器に容れて捧げられる。ひとつひとつの器の間隔は、麦の粒ひとつ分以上を間隔が調度よい、と謂われている。

師匠と弟子の距離、個人と個人の距離、どんな場合にでも応用でき、ある程度の距離感が重要であることをチベットの家庭では子どもの時から器の間隔で教えている。付かず離れずの関係、その重要性を私たちはそこで学んでいく。

仏前に捧げる閼伽水は、諸仏の面貌に捧げるという意味と同時に、諸仏を道場に勧請した際に、諸仏の御足を洗い清めるための、足湯としても機能している。諸仏の足が汚れてしまう訳ではないが、私たちは諸仏を毎日自分たちが住んでいる場所に客人としてお迎えし、接待する時にはそこからはじめる。これらは灌仏供養という一連の儀式となる。

灌沐供養とは、釈尊が降誕した時に神々が浄らかな神々の聖なる水で釈尊の降臨を祝ったのと同じようにすることが理想である。まずは諸仏を自分のいる道場へお迎えし、足湯で御足を洗い、それから身体全体を洗い、身体全体に香水をつけながら拭き、塗香などを身体につけ、清浄で滑らで着心地のよい新しい衣をお召しになってもらい、その後に宝冠などの身体的な装飾品を再びつけていただく。

こうした最上級の客人の接待によって、自分のところにきてくださった釈尊をはじめとする諸尊を歓迎して接待する、という一連の儀式を灌沐という。

「灑水」というのは、拭身の時に香水を身体につけるためのことであり、いまのことばで言えば、香水でできたボディスプレーを体に噴射して、薫りをつけるということになる。

釈尊在生の時、外道の師に帰依しているある王がいた。彼は外道の師に帰依しているので、自国民に釈尊の教団への帰依を禁じていたが、王女のひとりは他の様々な王が釈尊に帰依し、釈尊の教団を自国に迎えて、供養しているのを聞いて、自分たちの国は無知な父親の政策により、釈尊をお迎えすることもできない、状況を嘆き悲しみ、涙しながら心の底から「余すこともない一切有情の客人となられた方、悪魔の軍隊をすべて滅ぼされる神、一切の真実を正しくご存知である世尊よ、どうかここにいらっしゃいますように」と唱えたのである。すると次の瞬間に、釈尊は王女のために、菩薩衆を引き連れて、王女のもとへとやってきて説法をしたのである。

ひとつの原子のなかには、全宇宙の原子の数だけの諸仏が存在していると謂われる。また仏のいない時も存在せず、仏のいない場所も存在しない。これは同時に諸仏の教えつまり善説が説かれていない時もなし、善説が説かれない場所も存在しないということを意味している。

馥郁たる薫りたつ香水はどんな使い方をしても、絶対的によい薫りを漂わせているかのようである。善説は常にどんな音声よりも美しい調べで、深淵でかつ衆生の願いを叶えるものであり、それは絶対的に美しいものである。この詩頌はこの仏教というものが絶対的なる善であるということを説いている。

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