2020.03.24
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

春の雪解けの水

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第2回
訳・文:野村正次郎

仏典の最初は諸仏への讃や礼拝・供養文があるが、それに続いて、著作の宣言というものがある。この偈では、雪が溶け、流れだした透き通った冷たい清流によって、一切有情の苦しみの炎の熱が冷やされて、苦痛が鎮められていく様が前半で表現されている。

後半はこれから説くこの善説が神々たちの飲み物である甘露水となり、それによって善悪の分別を知ることができる、祝福された知性がある者たちが、それによって滋養と無限の寿命を得て、無限の生命の息吹きが与えられる、という様子が表現される。甘露とは神々たちの飲み物であり、それは清浄であり、かつ発光しているものである。きらきらと光る雪解けの新鮮な水が、甘露となり生命に活気を与える様子が説かれている。

チベットの人たちを日本に案内すると、日本はとても綺麗で、冬でも山には緑が茂っていてとてもいい土地ですね、と言ってくれる。しかしふと「でも雪が山にないのに水はどこからやってくるんでしょうか。冬でも山に雪がないのに、河が流れているのはとても不思議だね。」と聞かれるものである。山に雪がないのに河に水が流れるのは何故か、ということは殆どの日本人は疑問にもつことはないだろう。これが文化の違いであり、文化の違いに風土は密接に関係している。

文化の違い、風土の違い、というのはことば使いにも違いがでてくるものである。チベット語に「東西南北」や「左右」にあたるものがない訳ではないが、チベットの人たちは「あちらへ」(パー)「こちらへ」(ツー)「上の方」(ヤー)「下の方」(マー)という表現を多用する。たとえば弟子が先生に道順や場所を教えるときに、「先生、あの門を入って、上の方にいって、あっちへ曲がって、下の方に行くと、こっちへ細い道があって、そこからまた上の方にいくとこっちに来るとその店はありますよ」という言い方で教える。

「本当に分かるのかな」と心配しながらそんな会話を聞いていると、「よく分かりました。ありがとう」と先生たちは答えるので、驚きだ。日本人なら「右左どっちですか。東西南北のどっちですか。」と聞き直したくところだが、チベットの人たちは、こんな表現で目的地に辿りつける。それには理由がある。

彼らがどうやって方向感覚を得ているのかといえば、「上の方」(ヤー)の起点には「上(トォー)のカンリンポチェ」(カイラス山)が起点となっている。勝楽(チャクラサンバラ)尊そのものであると信仰されているカイラス山から流れてくる水の向かう方を「下の方へ」(マー)といい、逆にラサからカイラス山の方向に行くことを「上の方へ行く」という。西方からラサへ来ることを「下の方に来る」ということである。それと同じように「山から見て広がっている場所」(ド)と「山に迫って行く方向」(トォー)というのである。日本では都に行くことを「上る」といい、逆方向を「下る」いい、起点に対する上り下りは場所により異なるが、チベットでは「下る」はカイラス山から基本的には東方向に移動することであり、この起点と「行く」「来る」という表現を使い分けることで方向感覚を持っているのである。

カイラス山

春になると雪が溶け、美しく透き通った水が山からは流れてくる。雪解けの水は「山から見て広がっている場所」(ド)に広がり、草原の緑を潤し、花を開かせる。勝楽(チャクラサンバラ)尊の棲家であるカイラス山から流れてくる清流は、観音菩薩の仏国土であるチベット全体を潤す、神が与えてくれる甘露水であり、すべての生命を生み出す生命の水となるのである。

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