2020.03.23
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

正法という大海に勝利あれ

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第1回
訳・文:野村正次郎
南インド、ゴアの遠浅海岸

チベットには海がない。チベット人にとっていまも昔も海と聞いて思い出す場所、それはインドであろう。インドには広大な海があり、現在デプン・ゴマン学堂があるムンドゴッドからもカルワールの海岸は比較的近くにある。

題名の意味

グンタン・リンポチェの『善説・水の教え・波打つ数の二つの教え』というこれから読んでいく詩篇の正式タイトルは、

ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་
『善説・水の論書・百の波紋をもつ二つの教流』

というのが正式なタイトルである。

「善説」(ལེགས་བཤད་)というのはsubāṣitaの訳語であり、「善く説かれたもの」という意味がある。通常は「箴言」「美文」などの意味があるが、通常仏教では「善説」といえば、ブッダの教えのことを指している。

「水の論書」(ཆུའི་བསྟན་བཅོས་)というのは、「水」(ཆུ་)に関する「論書」(བསྟན་བཅོས་་śāstra)であるということを意味している。「論書」(śāstra)とは、ゴマン学堂では「煩悩を浄化し、救済する二つの功徳を具足する清浄なる能詮」と定義されるものである。「論書」を分類すれば、仏語と有情の論書の二つに分類されたり、了義・未了義の二つに分類されたり、大乗蔵・小蔵蔵の二つに分類されたり、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に分類されたり、十二部教に分類される。「水の論書」と名付けられているのは、本詩篇のひとつひとつの詩頌のすべてが水に関する譬喩を使って書かれていることによる。こうした書物は非常に珍しいがグンタン・リンポチェは本詩篇以外にも「樹の論書」という詩篇も残している。ここでは『水の教え』『樹の教え』と翻訳することにした。

「百の波紋をもつ二つの教流」という部分であるが、まず「百」は多いということを表現しているだけで、実際の数としての100ではない。水が波打つ時、その表面にはきらきらと光る数多くの波紋ができる、という情景を表現しているものである。「二つの教流」(ལུགས་གཉིས་)とはここでは「世間的な法である高潔な行い」と「諸尊の法である顕密の仏法そのもの」とのことを表している。世間的な法というのは、現世利益を得るために必要な教えであり、諸尊の法というのは来世以降に役立つ法という意味である。チベットでは「法」というものは、現世利益のために行うものではなく、自分の死後のことを意識することからはじまる、というのは他のところでも多く説かれるし、本詩篇にもでてくるのでそれは読みすめていく上で徐々に理解できるだろう。

『水の教え・波打つ数の二つの教え』はこのようなタイトルをもった詩篇であるが、合計で140偈から成っている。これから最低毎日1偈ずつ配信したとしても、140偈が終わるのは、8月のはじめになるだろう。現在の新型コロナウイルスの感染拡大の早期収束を願いつつ、毎日1偈ずつでもこの詩頌を読んでいきたい。(基本は無料ですべて配信したいと思いますが、日数が経ったバックナンバーは徐々に有料購読会員・施主会員のみ閲覧できるようにしたいと思います。)

帰敬偈

一番最初の偈としては次のようなものとなる。

智慧の海底は深遠で底が見えることもない

大悲の如意宝ですべての望みは満ちている

偉業は波打ち 常に揺れ動きつづけている

君よ 牟尼自在よ  法の大海に勝利あれ

1

この偈は、ブッダの智慧である一切相智は、海底のように深く、海の表面からはその深さがどのくらいなのか測り知ることができない。ブッダの大悲心は、すべての望みを叶えてくれる如意宝珠のように、一切衆生の希望を叶える。そしてブッダの活動は、海の波が様々なところに辿りつき、常に止まることを知らず衆生利益の活動を続けている。そのような牟尼王、釈尊、その方が説かれた仏法という大海に勝利あれ、という意味である。

ブッダのことを表す名称として「勝者」「勝利者」と呼ぶが、これは「四魔を打ち負かした者」という意味である。「四魔」とは死王魔・煩悩魔・天子魔・蘊魔の四つである

「死王魔」とは、死神、つまり死のことを表している。「煩悩魔」とは貪瞋痴の煩悩の三毒が一切の苦しみの原因であるので、それは魔であると言われる。「天子魔」とは他化自在天の神々のことを表しており、他化自在天は欲界の頂点に在住する神々のことであるが、彼らはだれかが善業を成就して、自分たちよりも偉くなるのを邪魔するので「天子魔」と呼ぶ。釈尊が成道する際に邪魔した「魔」(マーラー)たちの中心はこの他化自在天の神々のことである。「蘊魔」というのは我々の肉体と精神を構成している「有漏の取蘊」のことを表している。仏教では「五蘊盛苦」といい、我々有情が「有漏の取蘊」をもって生まれてきていること自体が苦しみであり、その苦しみを維持するために、様々な煩悩を増長させてて、悪しき業を積んでしまうと考える。だから肉体と精神をもって生まれていることそれ自体が苦しみであり、それは善を行う上での妨げとなる(邪魔をする)のでそれを「魔」と呼ぶのである。

「大海」とここでは訳したがここでは釈尊のことを「海」に喩えている。すべての魔を打ち負かし、深海のように凡人には計り知れない智慧をもち、海がさまざまな場所に満ちて行くように、衆生の望みをかなえ、常に波が止まってしまうことがないように、衆生利益の活動をその王者が行っているというイメージである。衆生利益の活動には、ブッダはさまざまな化身を示現するといわれる。たとえば橋が必要な人には橋になったり、水が必要な人には水になったりする。そうした化身のなかでも最勝のものと言われているものが、この世に降臨して仏教というものを説く「最勝化身」である。

「海」に関連していえば、たとえば「ダライ・ラマ」というのはモンゴル語で「海のように偉大なる師匠」という意味である。歴代のダライ・ラマはこのこともあり、常に「〜ギャツォ(海)」という名称をもっている。

チベットには海はないが、かつて海であったことからも岩塩がたくさんとれる。また海の地層が剥き出しになっている崖もたくさんある。弊会の活動のなかでもゴマン学堂の僧侶たちが日本にやってきてまずは日本は海に囲まれていることに大きな衝撃を受ける。私たちは彼らが来日するといつも水族館にお連れしてきた。水族館にいくとさまざまな海の生き物をみて、「衆生無辺」という経典のなかで説かれていることが事実であると彼らは確信する。またアボも長年日本人がなんでそんなに海の近くに住みたがるのか、理解ができなかったようである。(海の近くに住んでいる人たちの国で思うこと

海を見に行き、海を眺めていると、その海がインドやアフリカや北極や南極まで繋がっていることに気づくであろう。すべての川は海に流れ込み、その海は世界中に繋がっている。日本では桜が満開であるが、いまの状態で無理に花見にいくのはやめて、海を見に行き、釈尊のことを思い出す、というのもひとつの選択肢ではないだろうか。

続きはまた明日。


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