2019.10.05

『縁起心頌註 善逝意趣荘厳』試訳(2)

チャンキャ2世ガワン・ロサン・チューデン

甲二 テキストそのものの意味

 本典そのものの意味には、本テキストの提示、その意味の解説との二つがある。

乙初 本テキストの提示

 イェー・ダルマーのチベット語訳としては、

何であれ諸法は因によって生じている それらの原因とその滅をも
如来は説いている 偉大なる沙門はこのように説いている。

これらの諸法は因によって生じている これらの因より滅するのである
如来はこれを説かれている このように偉大なる沙門は説いている。

因によって起こっているこれらの諸法のその原因とその滅をも
如来はこれを説かれている このように偉大なる沙門は説いている

一切の法は因によって起こっている この原因を如来は説いている
そこでその滅すること 偉大なる沙門はこれを説いている

一切の法は因によって生じている その滅を如来は説いている
因において滅するもの 偉大なる沙門はこれを説いている

と等の多くの異なった訳がある。

乙二 その意味の解説

 このように異訳は五種類あるがその最後のものに関して述べておこう。この訳文は『出家経』で

諸法は因より生じている
それらの因とそれらの滅も
如来自身は説かれている
こう説く法規をとる沙門は偉大である

とあるものと『大集寶幢陀羅尼』で、

煩惱業因緣 世間如是轉  煩惱業不生 導師如是說 
生老死定壞 彼解脫無上 如彼勇牛王 如來自悟說

世間は業と煩悩を因とし有因のものとして生じているのであり、
業と煩悩は滅することになるものである、とも導師は説かれている。
生と死、破滅、そして苦悩に決して住すこともない、
最勝なる解脱を語られる方はそれを自ら証解し説かれている。

とあるものと表現している内容は表現の形式は一致している。最後の訳例はほかの二つを注釈する通りであるので、この三つの訳文の意味を同じひとつの文脈として解説しよう。それには、四聖諦に関する解釈、十二縁起に関する解釈、甚深縁起実義に関する解釈、という三つがある。

丙初 四聖諦に関する解釈

 初には、共乗に関するもの、不共乗に関するもの、という二つがある。

丁初 共乗に関するもの

解脱を求める分別が有る者たちは、輪廻たるこの苦諦を滅して断じるための方法は有るだろうか、無いだろうか。もしも有るとすれば、それはいったいどのようなものなのだろうか、とこのように問いかける。知るべきもの、有法。世間すなわち輪廻に属すこれら苦諦たる諸法は、因縁等という他者に依存しない堅固に成立した断絶し得ないものなのではない。輪廻苦諦に属す諸法は、一部だけではなく、そのすべてのものは、自己の因である業や煩悩に帰属する集諦から生起しているものであり、しかもまた取因や倶因を有する集合体から生起したものであるので、その因である業と煩悩の集諦が滅すれば、その本体もまたも滅するからである。このことを述べるために、

「一切の法は因によって生じている」
「諸法は因より生じている」
「世間は業と煩悩を因とし、有因のものとして生じている」

と説かれている。

それでは、輪廻たる苦諦の因、この業・煩悩の集諦を滅尽させ退けるための因というものは有るのだろうか、無いのだろうか。知るべきもの、有法。この業・煩悩の集諦を滅尽させ退けるための因は有る。人無我・無常等十六行相を証解する道諦の修習に依って、この業や雑染の集諦は滅尽させ退けることができる、と一切衆生にとっての導師である如来は正しく善く説かれているからである。このことを述べるために、

「その滅を如来は説いている」
「それらの因とそれらの滅も」
「業と煩悩は滅することになるものである、とも導師は説かれている。」

と説かれている。

それでは、集諦を滅する因、即ち道諦の修習に依れば、滅諦、即ち解脱涅槃を得ることになるのだろうか。知るべきもの、有法。業・煩悩の集諦を退ける、断じる因、即ち無我等を証解する道諦を修習することに依拠し、それを得て生・老・破滅等の苦、すなわち苦諦に属す一切のものは完全に継続することがないもの、即ち、永遠に滅した滅諦という最勝なるこの解脱涅槃というこれを得ることになるのである。そのようなものを得ることになることが如何なることであるのか、というこれを語り主である偉大なるこの沙門は、自ら知り、観じて、現証して解説したそのまま、このように説かれるからである。このことを述べるために、

「因において滅するもの、偉大なる沙門はこれを説いている」
「それらの滅をも こう説く法規をとる沙門は偉大である」
「生と死、破滅、そして苦悩に決して住すこともない、
最勝なる解脱を語られる方はそれを自ら証解し説かれている。」

と説かれるからである。

『出家経』の偈頌と『大集寶幢陀羅尼』の偈頌の二つの意味は、これ以外の前掲のものよって理解可能であるが、では『出家経』で「こう説く法規をとる沙門は偉大である」というのは如何なることなのだろうか。

これは設定できる。前述の四諦の取捨事項を説いたこうした法規を、御自分で知り、それを観じ、即ち、実践していることによって、最勝なる解脱涅槃の境位を現証し究竟の功徳を有する者、即ち、偉大なる沙門である世尊は説かれるので、このように説明しているこれは、欺くことのない量であると捉えるべきものとして相応しいものである、という意味であるからである。

それでは「その因とその滅をも」ということの「も」という助詞の意味、「業と煩悩は滅することになるとも導師は説かれる」という「も」という助詞の意味は如何なるものであろうか。

前者は設定可能である。輪廻苦諦に属す一切法は、自身の因たる業煩悩集諦から生じたものであり、その集諦を断じるための因たる人無我証解や四諦無常等を証解する道諦を如来は説いているだけでなく、その集諦の滅、即ち滅諦も如来は説かれていることを理解させるためであるからである。

後者の意味も設定可能である。輪廻苦諦は、自身の因、業・煩悩の集諦より生じている、そう衆生の指導者たる如来は説かれるだけでなく、これら業・煩悩の集諦が滅する因、人無我等の証解の道諦、というこれも導師如来は、完全に正しく説いている。このことを理解させるためである。

丁二 不共乗に関するもの

大乗不共に関して述べると次のようになる。

所知、有法。声聞・独覚の阿羅漢、清浄地に住する菩薩の相続にある、微細苦諦たる意を本性とする身体に帰す一切法は、自らの因から生じたものである。これを述べるために「一切の法は因によって生じたものである」と説かれている。

所知、有法。微細集諦たる、無明とその習気、あるいは無漏これらの業を滅し退けるための因は有る。各々の基体において、人無我・法無我たる無限の異門をもつ明知を通じて、証解する二つの微細道諦というこれがそれであると如来は説かれるからである。このことを説くために「その滅を如来は説いている。」と説かれている。

所知、有法。因たる微細道諦を修習することに依拠して、微細集諦と微細苦諦との二つが滅する微細滅諦という自性身を得ることになる。それがどのように得られることになるのか、ということの法規たるこれを、偉大なる沙門である、正等覚はご存知であり、現証され、それを説かれているからである。このことを解くために、「因において滅するもの、偉大なる沙門はこれを説いている」と説かれている。

丙二 十二縁起に関する解釈

十二縁起と関連し解釈すれば次のようになる。

所知を有法とする。生老病死等の苦諦に属する一切諸法は、自己の因から生じているものである。自己の因たる無明に依って行は生じる、……生に依って老死が生じる、といった雑染品の十二縁起は、各々の前者に依って各々の後者が生じるからである。このことを述べるために「一切の法は因によって生じたものである」と説かれている。

所知、有法。無明等の雑染品のこれらの十二縁起が滅する因は有る。人無我や法無我等を証解する道の修習によってそれらは滅する、と如来は説かれるからである。このことを述べるため「それらの因を如来は説いている」と説かれる。

所知、有法。雑染品のこれらの縁起を滅する因である人無我・法無我を証解する道の修習にもとづいて、雑染品の十二縁起が滅した滅を獲得することになる。そのように得ることになるその法規が如何なるものなのかを偉大なる沙門如来はお知りになり、現証することでそのように説かれているからである。このことを述べるために「因において滅するもの、偉大なる沙門はこれを説いている」と説かれる。

丙三 甚深縁起の実義に関する解釈

所知、有法。所断たる苦集に属す一切法は、自己の因から生じたものである。自己の原因である、甚深縁起の実義に対する無知蒙昧である人我執・法我執という無明に依って生じているからである。このことを述べるために「一切の法は因によって生じたものである」と説かれている。

所知、有法。所断である集に属する一切法の因たる我執無明というこれを退ける、滅する因は有る。人・法の一切は真実空であるという甚深縁起の実義を証解する諸々の有学道がそれであると如来は説かれるからである。このことを述べるために「それらの因を如来は説いている」と説かれる。

所知を有法とする。因たる無我証解のこの慧を修習することに依り、離という果、すなわち所断たる苦諦・集諦が滅した究竟の滅という無垢法身を得ることになる。そのようになる法規が如何なるものであるのかというこれおを偉大なる沙門、仏世尊は現証して、それを説かれているからである。このことを述べるため「因において滅するもの、偉大なる沙門はこれを説いている」と説かれる。

この解釈は妥当である。『聖縁起名大乗経』で「縁起法界の偈頌を中に入れておくならば」と法界、即ち縁起実義を所詮の主題として説示する理由で、ここで「縁起法界の偈頌」と説かれるからである。

甲三 この説明への疑問の払拭

料簡の狭い或る者は考える。「この因を如来は説かれている」という表現では、釈尊自身がご自分のことを「如来」であると呼び、その自分自身に対して「説かれている」と敬語表現をし、「偉大なる沙門はこのように説かれている」とご自分のことを「偉大なる沙門」「説かれている」と敬語表現で語っているのはこれは不適切なのではないだろうか。これは釈尊自身どのようなことを説かれているのだろうか。と思うかもしれない。

しかしこれは矮小な見方という過失である。『出家経』では、

私に類するような者などいないので、
私には阿闍梨とする者など誰もいない。

この世において仏はただ私一人であり、
正しい最勝な菩提を得ている者なのである。

すべての者より秀れており、世間の一切を智り、
ここで一切の法を衣とし得る者などいないのである。

すべてを断じて、愛欲を離れ。解脱を成し遂げて、
現証した者が私であるので、誰に師事しろというのだろう。

如来とは天と人に対して説法する者である。
一切智の力はすべてを兼ね備えたものである。

自ら菩提を証しており、正しく教説を説く者である。
無比無等な者にして、どこかの誰かに師事してはいない。

私はこの世間における阿羅漢、
世間の最上位の者が私である。

それ故天をも含めるこの世間で、
私は勝利者なのであり、魔を圧倒する者である。

と世尊ご自身がご自身に対する讃嘆を数えきれない程なさっているからである。

またこのような過失はない。仏世尊は四無畏を具足され、この偈頌もまた四無畏を通じ説かれるので、自分で自分を礼讃するのは不適切ではないかという疑念を起こすのは正しくないからである。

この偈頌は四無畏を通じ説かれている。「一切法は因より生じている」というもので、輪廻の一切の苦は自身の因たる業・雑染に依って起こっているが故、輪廻の因である業・雑染には依るべきではない、ということを、障げる法を説くのに無畏(説障法無畏)ことから説かれている。「その因…」というもので、輪廻の因たる業・雑染を滅するため、無我等を証する諸々の道を修習しなければならない、ということが四無畏の一つである出離道を説くことに関する無畏(説出道無畏)から説かれているのである。「因において滅するもの」とは、輪廻の因たる業・雑染の対治である道を修習することに依って輪廻のすべてを完全に断じることになり、自分自身も断じている、ということを四無畏のなかの自利断円満、自己は常楽であり恐れがない、という無畏(漏永尽無畏)から説かれているのである。「如来は説かれた」と「偉大なる沙門はかく説かれた」とは、四無畏のなかの自利証円満に対する無畏(一切智無畏)から説かれている。

それでは仏の心相続の四無畏とは如何なるものか、といえば、これはジェ・ダクニーチェンポの御意に則ったギャルツァプ一切智者の著作たる『現観荘厳論釈・心髄荘厳』には次のようにある。

 四無畏〔の相〕は有る。(1)自利に関して、聴衆の中心で、私は一切法を一切相において現等覚したと自身で認めている時、「これを御心に抱いていないかもしれない」とするこの法に対応した反論の余地が無いことから〝証円満には畏れるものが無い〟(一切智無畏)なのであり、(2)利他に関して、貪等の煩悩障・所知障が解脱や一切智を妨げるものであると語る時、「この所断に依っても障害にはならない」とするこの法に対応した反論の余地が無いことから、〝障げたる法を説くのに畏れが無い〟(説障法無畏)のであり、(3)一切智性・道智性等の道が、解脱と一切智への出離に他ならなない、と完全に説く時に、「この道に依存しても出離できない」とするこの法に対応した反論の余地が無いことから、〝出離たる道を説くことに関する無畏〟(説出道無畏)なのであり、(4)自利断円満に関する無畏(漏永尽無畏)とは、自己自身の漏を残りなく尽している、ということを認めている時に、この法に対応した反論の余地が無いことから、自身が楽を得ており、不安は無く、無畏を得ている境地、すなわち首領たる大波の境地に達していると宣言するのであり、群衆のなかにおいて、獅子吼を宣布することもそのようであり、経典では「嗚呼、私はこれらの方を現等覚したのである」等と説かれる通りであるからである。

また或る者は「〝一切法は因によって生じたものである〟等と〝世間は業と煩悩を因とし因をもつものが生じている〟等というこの二つの偈頌は、アシュヴァジット聖者が遊行者ウパティシュタ、すなわちシャーリプトラに語ったものであるので、縁起心頌と表現されているものは一致しているが、後者の阿含は聖者アシュヴァジットが遊行者ウパティシュタに法を説いた文言であって、縁起心頌の密意を注釈するものとして、説いたものでない。したがって、密意を注釈するものだとすることは一体どうして妥当であろうか」とこのように考えるかもしれない。

過失はない。聖者アシュヴァジットは、世尊の転法輪の最初となった四諦法輪に基づいて阿羅漢果を得た大聖者である。しかるに、縁起心頌の密意を注釈することができる人物であり、それに留まらず、聖者アシュヴァジットがウパティシュタにこの偈頌を説かれた時、世尊は聖者アシュヴァジットを加持され説かれ、縁起心頌は、四諦の規定を示す法であり、甚深で所詮は広大であるので、それに一致するように、意味を要約し文を少し分解して説くのならば、ウパティシュタのためになる、とお考えになり、そのように説いたからなのである。

アシュヴァジットがウパティシュタにこの偈頌を二つ説かれた時、世尊はアシュヴァヴィットの心相続を加持され説かれたのである。この二つの偈頌が加持によって説かれた理由としては、それは加持された経典であるとしなければならないからである。そうなる。これは、経典の文言の特殊であり、かつ、これは勅語の経典でも、許可の経典でもその両者のいずれでもないからである。この二つの偈頌は、経典の文句であると設定しなければならない。前者は『出家経』であり後者は『大集寶幢陀羅尼』の経典の文言であるからである。この二つの偈頌は、縁起心頌の意味をまとめ文章を少し拡大して説くならば、ウパディシュタのためになるだろうと密意され説かれたものである。この二つの偈頌を説いたことに基づいて、その直後にウパティシュタは阿羅漢位を得たからである。

また、彼は「それでは聖者アシュヴァジットがこの二つの偈頌を示したと説くのならば、この二つの偈頌は同時にウパディシュタに対して説かれたもののなのか、もしくは異時に二つは説かれたのであろうか。前者であるとすれば、同時にこの二偈頌を説いた典拠はない。後者であるとすれば、聖者アシュヴァジットは法を二回説いたこととなり、それ故にウパディシュタは阿羅漢位を二回得たと主張しなければならなくなる。それ故にこれは不適切であろう。」と述べるかもしれない。

この過失はない。聖者アシュヴァジットがウパディシュタに最初に説法したことから阿羅漢果を得たけれども、説法の文言が異なるそれぞれの経典があることは、聖者アシュヴァジットがウパディシュタにサンスクリットで一つの法頌を説かれたこれが、翻訳者による翻訳によってチベット語では、異なる二つの偈頌となったとか、仏の力と所化の信解は不可思議であるということによってそのようになっているからである。

(続く)


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