そこから甚深広大の実践の
三つの道へ順次流れてゆく
円満で誤りなき教誡は
眠らぬ賢劫の者の供物である
この偈は、釈尊を起源として、龍樹を開祖する文殊菩薩から継承されている甚深見次第と呼ばれる無自性空の思想的な伝灯と、無着を開祖として弥勒ら継承されている広大行次第と呼ばれる大乗菩薩行の実践の伝灯との二つの伝灯は、釈尊の説かれた教説を不転倒に注釈し、今日の私たちにその内容を完全な形で教示するものであり、それは釈尊の教説に対するひとつの供物のような荘厳となっていることを表現したものである。
本偈ではその様子が前の偈にあるようなすべての良質な水の水源が雪解けの水にあり、そこからガンジス河が流れて、様々な人々を潤し、それが神々に捧られる供物として使用されている様子に喩えられている。ガンジス河には、ビシュヌ神の足下より、天界・人間界・地獄界という三つの場所を順次通過して流れていくので「三つの道を流れゆくもの」(tripathagami)という別名があるが、その別名で表現される。「眠らぬ者」という表現は神一般のことを表し、神々は我々のような睡眠を必要とせず、常に覚醒した状態であるので「眠らぬ者」あるいは「常時覚醒している者」と呼ばれるその名称で表される。そのような呼称で呼ばれる神々は、ガンジス河の水をビシュヌ神などに捧げる供物として利用する様を述べることで、後代の我々のような仏教徒が、甚深見次第と広大行次第という仏教の思想と実践の伝統を継承し、それを実践することが諸仏への献辞を捧げることである、と表現しているのである。
「教誡」とは、解脱道を不転倒に表示する清浄な言語表現、と定義され、二諦説や四諦説などがその内容となるが、菩提道次第論などでは「一切の教説が矛盾することなく教誡として現れる」といわれることが非常に重要となる。これは釈尊の説かれた様々な教えは、その都度対機説法で説かれたものであり、そのすべては解脱を一切智へといたらしめるための教えであり、言葉上では矛盾するように見える教えも、そのすべて決して矛盾することなく、すべての教説が有機的に個々の修行者を解脱にいたらしめるための教えとして、理解できることが極めて重要である、ということは龍樹や無着をはじめとする祖師たちの書物のなかでも明らかであるが、この価値観は特にジョウォ・アティシャやゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパによって重視されているものである。
