作成日: 2009-08-27 最終更新日: 2016-09-30 作成:事務局

帰敬偈・序論

稀有なる二資量の雪山は、彼の慈悲の暖かさで溶け出して、
自然成就の法身の場へと拡がり、四種の学説の河流へと分流する。
偉業の大波は天空へと届き、外教の童子たちを畏怖させる。
千万の龍を頂く勝子たちの港、大湖マナサロワールである牟尼自在に勝利あれ。

勝者の代理人たる不敗の救主(弥勒)よ、
勝者の一切の智慧をひとつに集めた文殊師利よ、
勝者に授記されたナーガルジュナ様、アサンガ様、
第二の勝者聖父子よ、あなた方に私は頂礼します。

学説の規定を理解すれば、内外の教説の差異すべてが明らかになるだろう。
円満なる学者のなかで、清浄なる最高の説法者の禁戒の稀有なる守り手たることを表す
純白の旗印は、偏見を捨てた者によってこそ掲げられるものである。
自派・他派の学説の実義を判別する努力を学者が捨てることがあるだろうか。

それゆえ勝れた人々の善説をいまここにすべて要約し、
私と運命を共にする者たちへと与えるため、
学説の規定を簡単に纏め述べてみたい。
明晰な智慧を追求する人々よ、謹んで聴き給え。

今生の財産・繁栄・名声を省みることなく、心から解脱を追求する人は、清浄な無我の見解を証得するための方便に励まねばならない。何故ならば、甚深の見解を離れて、慈・悲・菩提心というものをどれほど修習しても、苦の根本を根絶することが出来ないからである。ツォンカパ大師は次のように説かれている。

実相を理解する智慧を備えることなく、
出離や菩提心を修習しても、
生存の根本を断ち切ることなどできないので、
縁起を理解する方便に励むべきなのである。

さて、見解の過失を断じ、微細・粗大な〔二〕無我の次第を確定するための自他の学説の規定を簡単に述べよう。それには二つ有る。すなわち、A1通説・A2詳説。

A1 通説

「トゥプター」という表現は造語ではない。何故ならば仏陀の聖言のなかで説かれているからである。たとえば『入楞伽経』では、

謂我二種通。宗通及言言。説者授童蒙。宗為修行者。
私の教法の形式には二種類ある。教示と学説とである。
童子に対しては教示を説き、瑜伽行者に対しては学説を説いたのである。

と説かれている。

更に、人を分類すると、学説によって知が変化していない人と学説によって知が変化している人とがいる。

前者は、聖典を学ぶこともなく、考えたり分析することもしないで、倶生起の知によって今生の楽しみのみを追求している者である。後者は、聖典を学び、基体・道・果の三規定を自己の知に成立させ、その内容を聖言・正理の道を通して論証する者である。

また「トゥプター」という言葉の語義については〔ハリバドラ著〕『〔現観荘厳論〕語義解明』によれば「トゥプターと〔いう言葉の意味〕は、正理と聖典によって教示のなかに自己の主張が成立して(siddha)おり、それ以外へ越えないので端(anta)である、〔という意味である〕」と説明されている。このように聖言・正理のいづれかに依拠して判断し、そこに成立しているものを命題として宣誓し、その内容は各自の知にとってはそれ以外の別の内容へと越えてゆくことが無い、このことから「トゥプター」と呼ばれるのである。

これ(学説)を分類すれば二つ有る。外教と仏教とである。単なる外教徒・仏教徒自体の違いは有る。何故ならば、心から三宝に帰依する人は仏教徒であり、三宝に心を向けることなく世間の見解に心から帰依している人は外教徒であるからである。また外教の学説論者と仏教の学説論者との違いも有る。説法者・法(教え)・見解の三つを通じて判別されるからである。そうなる。何故ならば、自派(仏教徒)とは、説法者は一切の欠点が無く功徳を完うしていること・その教えとしては有情に対して暴力を与えないこと・見解としては常一自在な我に関しての空を主張すること、という三つの特徴を備えているが、他派(外教徒)はこれとは逆であり、説法者は欠点があり功徳が完全なものではないこと・教えは有情に対して暴力を与えること、見解としては常一自在な我として成立していると承認しているという三つの特徴が有るからである。

A2 詳説

詳説には、B1外教の学説の規定の概説・B2自派の学説の設定を若干分類した説明。