2019.05.25

せめぎあう合う伝統の間で(1)

日本別院の未来を考える
野村正次郎
2014年日本別院の開創式典でシャナクを披露するアボ

かつて日本にはチベットの僧侶たちが暮らす正式なチベットの僧院というものは存在していなかった。正式なチベットの僧院として活動するためには、4名の僧侶が布薩・安居・自恣講という根本の三儀式というものを行なっていなけれらばならない。私たちが日本にはじめて「正式なチベットの僧院」というものとして活動しはじめて、すでに15年経とうとしている。

日本別院が開創されたのは2014年である。そもそも「日本別院」という名称で私たちが活動をはじめたのは、要するに「別院」「分院」であるので、必要でなくなれば、いつでも閉じることができるという気軽さを保つ意図も含まれていた。

もちろん私たちが「チベットの僧院」というものをこの日本ではじめる前にもいくつかのプロジェクトがあった。かつてはダライ・ラマ法王が日本にチベット仏教のセンターをつくろうというプロジェクトもあり、チベット風の本堂を建設し、日本の墓地開発業者などと合同でそれを実現しようというプロジェクトもがあったが、霊園開発ということとチベット仏教とがなかなか共同して運営をすることも出来ないこともあり、結局は頓挫した。

デプン・ゴマン学堂は1416年にジェ・ツォンカパが高弟ジャムヤンチュージェに命じて創設されたもので、すでに600年以上もの伝統を有している。

1959年、中国共産党によって弾圧されたチベット人たちは、ダライ・ラマ法王のインドへの亡命に伴い、インドに逃れることになった。最初は着の身着のままで難民となった僧侶たちは、亡命後まもなく北インドのバクサドールという場所にてチベット難民による僧侶としての集団生活を再開することになった。

バクサドールはもともとインドを支配していたイギリス軍の刑務所の跡地であり、野生の虎がでたり、毒ガスが充満するような場所で、チベット難民の僧侶たちは健康状態の悪化などに苦しんだ。彼らはそこで仏教の伝統を守るために根本の三儀軌を復活し、特にチベット式の建築物も何もないが、僧院(ヴィハーラ)としての活動を再開したのである。

難民としての生活が長くなり、チベット本土でも文化大革命で強烈な弾圧が行われていたため、彼らは現在のカルナタカ州へと移住して、その地で僧院を復興することとなったのである。最初にカルナタカ州へ移住した移住したときにはゴマン学堂には60名の僧侶しかいなかったのであり、ダライ・ラマ法王とインド政府のおかげで60名の僧侶たちは、カルナタカ州から60名分の住居と耕作可能な農地を提供してもらい、自給自足することとなった。

その後1980年代になり、文化大革命終了後、チベット本土とインドとの往来が可能となるのにつれて、新しい世代のチベット人たちはインドに復興された僧院をめざして亡命した。現在もラサのゲペル山では小規模ではあるが、それは継続しているが、亡命先のインドにおいて復興されたものが活動の中心となっている。

日本別院は2004年に、ケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲルツェン師を中心として、根本の三儀軌を開催しながら、2006年に控えたダライ・ラマ法王の広島来訪の準備を開催するために開創されたものである。当時から継続して日本別院で現在も活動しているのは、15年間この活動を支えてきたロサン・プンツォ師(アボ)の功績に多くをよっている。

アボは毎日枯葉が落ちてくる境内をこの15年間掃き掃除をやめたことがない。毎日朝はやく起きて、掃き掃除をし、龍蔵院の本堂にお供えをし、そしてまずは自分の修行として行っている経典をひもといて1時間ばかり、その後には、本堂にて大聖歓喜天の根本陀羅尼などを含めて、毎日祈願している。

本来は2006年にダライ・ラマ法王が来日された時には、この僧院は活動停止する予定でもあったが、多くの方々からの要望やダライ・ラマ法王のご意向もあり、その後も活動を継続してきている。アボが最初にはじめた頃には、このお寺としての活動がもしもできなくなりそうになったら、弟のリンポチェを招いて継続しよう、そうスタッフたちで語り合っていたことも、そのまま現実となり、いまはリンポチェとアボのお二人の活動する場となった。

今年は日本別院開創15周年を迎える年である。日本別院としての活動はこれまでもせめぎ合う伝統のなかで行われてきたものであるが、いまもういちどその活動内容や意義を考え直していきたい時期にもきている。