2010.01.19

K2 六苦を思う

『勧戒王頌』では、次のように説かれている。

(2)不定であること、(2)飽くことがないこと、(3)肉体を何度も捨てること(4)何度も結生相続せざるを得ないこと、(5)何度も善趣や悪趣を巡ること、(6)何らの支援者もいないこと、これらが〔輪廻の〕過失は六種ある。『勧戒王頌』suhrlleka

これは三種類にまとめることができる。(1)すなわち輪廻に対しては信頼感がもてないこと・(2)そこでの快楽はいくら求めても満たされることがないこと・(3)それらが無始以来起こっているということである。

(1)には四つあるが、そのうち既得の身体には信頼感がもてないことが、「肉体を何度も捨てること」である。利害をなすことについて信頼感がもてないことは、父が子に変わること、継母が母に変わること、友が敵に変わることなど、[1]「不定である」のである。既得の円満には信頼感がもてないことは、善趣から悪趣へ墜ちてしまうことであり、支援者にも信頼感がもてないことは、支援しなくなることが挙げられる。第三のもの(3)は、(4)「何度も結生相続せざるを得ないこと」であり、生まれることの流れははっきりせず、そのように何度も考えなければならない。

また執着心を煽っている現在の快楽の享受のその殆どが、苦が他のものへと変化したことに対して快楽感が生じているのであって、苦が無くなることに依存していないその本質からの楽は存在していない。たとえば過度に道を行きすぎて苦しみが生じている時には、しばらく留まることで楽の思いが起きるが、それ以前の大きな苦しみが次第に消滅する時に同時に楽が次第に生じるように思われているのであって、本質的に楽なのではないのである。再び休み過ぎるとそれ以前と同じように苦しみを生じるからである。本質的な楽の原因であるのならば、苦の原因に幾ら留まろうとも楽は一方的に増加しなければならないのであるが、長すぎると苦しみのみが生じるように思われるのである。これらのことは、『入胎経』

Cf. Garbhāvakrāntisūtra, P.760: 109.3.3-6『四百論釈』で説かれている。

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