他学説の否定
ある人が言う、「何らかの知の客体であれば、客体である」と。兎角、主題。客体であることになる。何らかの知の客体であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、兎角、主題。何らかの意識の客体であることになる。兎角を捉える分別の客体であるから。「不成立」ならば、兎角、主題。兎角を捉える分別の客体であることになる。兎角を捉える分別の思い込みの客体であるから。「不成立」ならば、兎角、主題。(x)は(x)を捉える分別の思い込みの客体であることになる。(x)は人無我であるから。原帰謬で「その通り」ならば、兎角、主題。客体ではないことになる。計量対象ではないから。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。客体・計量対象の二つは同義であるから。「不成立」ならば、客体と計量対象との二つは同義であることになる。客体と量によって認識されるものとは同義であるから。
ある人が言う、「主体であれば、認識である」と。「壺」と言表する声、主題。認識であることになる。主体であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、「壺」と言表する声、主題。主体であることになる。(x)の客体は有るから。「不成立」ならば、「壺」と言表する声、主題。(x)の客体は有ることになる。(x)の言表対象は有るから。「不成立」ならば、「壺」と言表する声、主題。(x)の言表対象は有ることになる。壺がそれであるから。「不成立」ならば、壺、主題。(x)は「(x)」と言表する声の言表対象であることになる。(x)は人無我であるから。原帰謬で「その通り」ならば、壺と言表する声、主題。認識ではないことになる。明らかにし知覚するものではないから。「不成立」ならば、「壺」と言表する声、主題。明らかにし知覚するものではないことになる。物質であるから。「不成立」ならば、「壺」と言表する声、主題。物質であることになる。声であるから。「不成立」ならば、壺、主題。(x)と言表する声は声であることになる。(x)は人無我であるから。また、眼根、主題。認識であることになる。主体であるから。遍充承認済。主体であることになる。(x)の客体は有るから。「不成立」ならば、眼根、主題。(x)の客体は有ることになる。青がそれであるから。「不成立」ならば、青、主題。(x)は眼根の客体であることになる。眼根の把握対象であるから。「不成立」ならば、青、主題。眼根の把握対象であることになる。色処であるから。原帰謬で「その通り」ならば、眼根、主題。認識ではないことになる。物質であるから。「不成立」ならば、眼根、主題。物質であることになる。色であるから。「不成立」ならば、眼根、主題。色であることになる。眼処であるから。「不成立」ならば、眼根、主題。眼処であることになる。眼であるから。また、仏聖者、主題。認識であることになる。主体であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、仏聖者、主題。主体であることになる。(x)の客体は有るから。「不成立」ならば、仏聖者、主題。(x)の客体は有ることになる。(x)の計量対象は有るから。「不成立」ならば、仏聖者、主題。(x)の計量対象は有ることになる。基体成立ならば(x)の計量対象であるから。原帰謬で「その通り」ならば、仏聖者、主題。認識ではないことになる。不相応行であるから。「不成立」ならば、仏聖者、主題。不相応行であることになる。人であるから。「不成立」ならば、仏聖者、主題。人であることになる。仏聖者であるから。
ある人が言う、「客体であれば、現量の量の直接客体である」と。無為の虚空、主題。現量量の直接客体であることになる。客体であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、無為の虚空、主題。客体であることになる。意識の客体であるから。「不成立」ならば、無為の虚空、主題。意識の客体であることになる。意識の客体とされ得るものであるから。「不成立」ならば、無為の虚空、主題。意識の客体とされ得るものであることになる。認識対象であるから。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。意識の客体とされ得るものとは認識対象の定義であるから。原帰謬で「その通り」ならば、無為の虚空、主題。現量量の直接客体ではないことになる。一切種智の直接客体ではないから。「不成立」ならば、無為の虚空、主題。一切種智の直接客体ではないことになる。一切種智の直接計量ではないから。「不成立」ならば、無為の虚空、主題。一切種智の直接計量ではないことになる。事物ではないから。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。一切種智の直接計量と事物との二つは同義であるから。
ある人が言う、「壺を捉える分別の把握客体であれば、壺を捉える分別の思い込みの客体である」と。壺を捉える分別上の壺ではないものとは逆のものとしての顕現、主題。壺を捉える分別の思い込みの客体であることになる。壺を捉える分別の把握客体であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、壺を捉える分別上の壺ではないものとは逆のものとしての顕現、主題。壺を捉える分別の把握客体であることになる。壺を捉える分別の顕現客体であるから。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。壺を捉える分別の顕現客体と壺を捉える分別の把握客体との二つは同義であるから。先の「不遍充」の箇所で「証因不成立」ならば、壺、主題。(x)を捉える分別上の(x)ではないものとは逆のものとして顕現は、(x)を捉える分別の顕現客体であることになる。(x)は人無我であるから。原帰謬で「その通り」ならば、壺を捉える分別上の壺ではないものとは逆のものとしての顕現、主題。壺を捉える分別の思い込みの客体ではないことになる。壺を捉える分別の把握形式の客体ではないから。「不成立」ならば、壺を捉える分別上の壺ではないものとは逆のものとしての顕現、主題。壺を捉える分別の把握形式の客体ではないことになる。壺を捉える分別の顕現客体であるから。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。壺を捉える分別の把握形式の客体と壺を捉える分別の顕現客体との二つは対立であるから。「不成立」ならば、壺、主題。(x)を捉える分別という把握形式の客体と(x)を捉える分別の顕現客体とは対立であることになる。(x)は人無我であるから。
ある人が言う、「壺を捉える分別上の壺ではないものとは逆のものとしての顕現、主題。壺を捉える分別の把握客体ではないことになる。壺を捉える分別によって把握されていないから」と。遍充しない。「不成立」ならば、壺を捉える分別上の壺ではないものとは逆のものとしての顕現、主題。壺を捉える分別によって把握されていないことになる。壺を把える分別の顕現客体であるから。
ある人が言う、「分別であれば、(x)の思い込みの客体は有る」と。声は常住であると捉える分別、主題。(x)の思い込みの客体は有ることになる。(x)は分別であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、声、主題。(x)は常住であると捉える分別は分別であることになる。(x)は常住であると捉える分別は有るから。「不成立」ならば、声、主題。(x)は常住であると捉える分別は有ることになる。(x)は人無我であるから。原帰謬で「その通り」ならば、声は常住であると捉える分別、主題。(x)の思い込みの客体は無いことになる。(x)の把握形式の客体は無いから。「不成立」ならば、声を常住であると捉える分別、主題。(x)の把握形式の客体は無いことになる。(x)は誤認識であるから。「不成立」ならば、声、主題。(x)は常住であると捉える分別は誤認識であることになる。(x)は常住ではないから。
ある人が言う、「声は常住であると捉える分別、主題。(x)の把握形式の客体は有ることになる。(x)の所縁の客体は有るから。」と。遍充しない。「不成立」ならば、声を常住であると捉える分別、主題。(x)の所縁とする客体は有ることになる。声がそれであるから。「不成立」ならば、声、主題。(x)は声は常住であると捉える分別の所縁の客体であることになる。(x)は声は無常であると理解する比量の所縁の客体であるからである。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。声は常住であると捉える分別と声は無常であると理解する比量との二つは同一の所縁を所縁とし把握形式が直接対立して活動している意識であるから。
ある人が言う、「壺を捉える分別であれば、壺が(x)の思い込みの客体である」と。壺を音声普遍のみを通して捉える分別、主題。壺が(x)の思い込みの客体であることになる。(x)は壺を捉える分別であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、壺、主題。(x)を音声普遍のみを通して捉える分別は(x)を捉える分別であることになる。(x)を音声普遍のみを通して捉える分別は有るからである。「不成立」ならば、壺、主題。(x)を音声普遍のみを通じて捉える分別は有ることになる。(x)は人無我であるから。原帰謬で「その通り」ならば、壺、主題。壺を音声普遍のみを通じて捉える分別の思い込みの客体ではないことになる。壺を音声普遍のみを通じて捉える分別の間接的客体であるから。「不成立」ならば、壺、主題。(x)は(x)を音声普遍のみを通じて捉える分別の間接客体であることになる。(x)は壺であるから。
ある人が言う、「意識であれば、意である」と。青を捉える眼識を経験する自己認証、主題。意であることになる。意識的認識であるから。遍充承認済み。「不成立」ならば、青を捉える眼識を経験する自己認証、主題。意識であることになる。自己認証であるから。「不成立」ならば、青を捉える眼識、主題。(x)を経験する自己認証は自己認証であることになる。(x)を経験する自己認証は有るから。「不成立」ならば、青を捉える眼識、主題。(x)を経験する自己認証は有ることになる。(x)は他者認証の認識であるから。原帰謬で「その通り」ならば、青を捉える眼識を経験する自己認証、主題。意ではないことになる。識でないので。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。心・意・識は同義であるから。先の「不遍充」の箇所で「証因不成立」と言うならば、青を捉える眼識を経験する自己認証、主題。識ではないことになる。心ではないから。「不成立」ならば、青を捉える眼識を経験する自己認証、主題。心ではないことになる。心・心所のいづれでもないから。「不成立」ならば、青を捉える眼識を経験する自己認証、主題。心・心所のいづれでもないことになる。自己認証であるから。また、意の識の内部項目に分類される受、主題。意であることになる。意識であるから。「不成立」ならば、意の識の内部項目に分類される受、主題。意識であることになる。意の識の内部項目に分類される心所であるから。「不遍充」ならば、意の識、主題。(x)の内部項目である心所であれば、意識であることになる。(x)は意の識であるから。
ある人が言う。「認識であれば、量である」と。雪山が青く顕現している感官認識、主題。量であることになる。認識であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、雪山が青く顕現している感官認識、主題。認識であることになる。感官認識であるから。原帰謬で「その通り」ならば、雪山が青く顕現している感官認識、主題。量ではないことになる。誤認識であるから。
ある人が言う、「量であれば、現量量である」と。声は無常であると理解する比量、主題。現量量であることになる。量であるから。遍充承認済。「不成立」ならば、声は無常であると理解する比量、主題。量であることになる。新らたな欺かれない知覚であるから。「不遍充」ならば、遍充は有ることになる。新たな欺かれない知覚とは量の定義であるから。原帰謬で「その通り」ならば、声は無常であると理解する比量、主題。現量量ではないことになる。現量ではないから。「不成立」ならば、声は無常であると理解する比量、主題。現量ではないことになる。分別を離れた認識ではないから。「不成立」ならば、声は無常であると理解する比量、主題。分別を離れた認識ではないことになる。分別であるから。そうなる。比量であるから。
自説の設定
客体の定義は有る。量によって計量されるものがそれであるから。客体・有・計量対象は同義である。客体を分類すれば、二つ有る。事物と常住との二つが有るから。事物を分けると五つ有る。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つが有るからである。色蘊の定義は有る。それ自身の構成要素が多く集まっている形成され得るものがそれであるから。色蘊と色との二つは同義である。色蘊を分類すれば二つある。外色と内色との二つが有るからである。外色を分類すれば、色処より触処までの五つがあり、内色を分類すれば、眼根より身根までの五つが有るからである。
受蘊の定義は有る。それ自身の構成要素が多く集まっているものであり、自己の客体を自己の力で経験する経験である心所がそれであるからである。受蘊と受とは同義である。受蘊を分類すれば、六つ有る。眼に集まってきて触を縁とすることによる受・耳に集まって触を縁とすることによる受・鼻に集まって触を縁とすることによる受・舌に集まって触を縁とすることによる受・身に集まって触を縁とすることによる受・意に集まって接触することを縁とする受とで合計六つ有るからである。詳しく分類すれば、十八有る。この六つそれぞれを分類し楽・苦・捨の三つずつが有るからである。
想蘊の定義は有る。自己の客体を自己の力で特相として捉えるという観点から設定される心所であり、かつ自己の構成要素が多く集まっているもの、がそれであるから。想蘊と想とは同義である。分類すれば、二つ有る。特相として捉える想蘊と文様として捉える想との二つが有るから。特相として捉える想は設定可能である。眼に集まってきて触れることから生じている想・耳に集まってきて触れることから生じている想・鼻に集まってきて触れることから生じている想・舌に集まってきて触れることから生じている想・身に集まってきて触れることから生じている想との五つはそれであるから。文様として捉える想は設定可能である。意に集まってきて接触したことから生じている想がそれであるから。
行蘊の定義は有る。色・受・想・識という四つのいづれではないものたる事物であり、かつ自己の構成要素が多く集まっているもの、がそれであるから。行蘊と行とは同義である。行を分類すると二つ有る。不相応行と相応行との二つが有るから。不相応行の定義は有る。行であり、かつ、自己との対応者が無いという点で際立っているもの、がそれであるからである。定義基体は有る。事物はそれであるからである。相応行の定義は有る。行であり、かつ自己との対応者が有ることによって際立っているものがそれであるから。相応行を分類すると四十九心所が有る。受・想の二つ以外のすべての心所は相応行であるから。
識蘊の定義は有る。自己の内部項目となっている心所が有る他者認証の認識であり、かつ、自己の構成要素が多く集まっているもの、がそれであるから。識蘊・識・心・意は同義である。識蘊を分類すれば六つ有る。眼の識から意の識まで六つあるからである。
主体の定義は有る。それ自身の客体へと働いている法がそれであるから。主体を分類すれば、三つある。認識・色たる客体・不相応行たる客体との三つが有るからである。認識の定義は有る。照明し認証するものがそれであるから。認識・意識との二つは同義である。認識を分けると二つ有る。自己認証と他者認証との二つが有るから。自己認証の定義は有る。能取形象がそれであるから。自己認証と自己認証現量とは同義である。定義基体は有る。青を捉える眼識を経験している自己認証がそれであるから。他者認証の認識を分類すれば、二つ有る。心・心所の二つが有るからである。心の定義は既に〔識蘊のところで〕説明した。
心所の定義は有る。自己の内部項目となる客体の心が有る認識がそれであるから。心所を分類すると五十一有る。五遍行・五別境・六根本煩悩・二十随煩悩・十一善・四不定が有るからである。五遍行の導出形式は有る。受・想・思・触・作意の五つを導出するからである。五別境の導出形式は有る。欲・勝解・念・定・慧の五つを導出するからである。六根本煩悩の導出形式は有る。貪・瞋・我慢・癡(無明)・見・疑の六つを導出するからである。見を分類すると五つ有る。有身見・辺見・誤見・増上慢・取禁戒見の五つが有るからである。二十随煩悩の導出形式は有る。前十個と後十個が有るからである。前十個の導出形式は有る。忿・恨・覆・悩・嫉・慳・諂・誑・■(心+喬)・害の十個が導出されるからである。後十個の導出形式は有る。無慚・無愧・■(心+昏)沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱の十個が導出されるからである。十一善の導出形式は有る。信・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・勤・軽安・不放逸・行捨・不害の十一個が導出されるからである。四不定の導出形式は有る。尋(理解)・伺(考察)との二つと睡眠・悔との四つが導出されねばならないから。
不相応行である主体は設定可能である。人がそれであるから。色たる主体は設定可能である。眼根から身根までの五つがそれであるから。
認識を分類すると二つが有る。量と非量という二つの意識が有るからである。量の定義は有る。新たな欺かれない知覚がそれであるから。量を分類すると二つ有る。現量の量と比量の量との二つがあるからである。現量の量の定義は有る。分別を離れた新たな欺かれない知覚がそれであるから。現量の量を分類すると六つ有る。眼識たる現量の量から意識たる現量の量までの六つが有るからである。比量の量の定義は有る。新たな欺かれない知覚であり、かつ、言葉と対象を混交し得るものとして捉える思い込みの知がそれであるからである。比量を分類すれば三つ有る。事物の力による比量・常識による比量・信仰による比量との三つが有るからである。事物の力による比量は設定可能である。声は無常であると理解する比量がそれであるからである。常識による比量は設定可能である。兎が居るものは月であると述べる言葉で言表可能であると理解する比量がそれであるから。信仰による比量は設定可能である。聖言量がそれであるから。非量の意識を分類すれば三つ有る。無理解・誤分別・疑念の三つが有るから。無理解は設定可能である。顕現しているが確定がない意識はすべてそれであるから。ご分別を分類すると二つ有る。分別たる誤認と無分別である誤認との二つが有るからである。分別である誤認は設定可能である。声は常住であると捉える分別と人我執といったものはそれであるから。無分別たる誤認は設定可能である。雪山が青く顕現している感官認識や陽炎が水として顕現している感官認識はそれぞれそれであるから。疑念は設定可能である。声は常住なのだろうか、無常なのだろうかと考える疑念がそれであるから。現前態の定義は有る。現量の量により直接理解されるものがそれであるから。現前態・事物の二つは同義である。隠匿態の定義は有る。比量の量により直接理解されるものがそれであるから。隠匿態と有とは同義である。
論難の排除
ある人が言う、「無為の虚空、主題。現前態であることになる。現量量により直接理解されるものであるから。『不成立』ならば、無為の虚空、主題。現量量により直接理解されるものであることになる。一切種智により直接理解されるものであるから。『不成立』ならば、無為の虚空、主題。一切種智により直接理解されるものであることになる。一切種智により理解されるものであるから。」と。遍充しない。「不成立」ならば、無為の虚空、主題。一切種智により理解されるものであることになる。一切種智の計量対象であるから。そうなる。基体成立であるから。原帰謬で「その通り」ならば、無為の虚空、主題。現前態ではないことになる。事物ではないから。
ある人が言う、「声無常、主題。隠匿体であることになる。比量の量により直接理解されるものであるから。『不成立』ならば、声無常、主題。比量の量により直接理解されるものであることになる。声無常であると理解する比量の量により直接理解されるものであるから。声無常、主題。(x)は(x)を理解する比量の量により直接理解されるものであることになる。(x)を理解するは比量の量が有るから。『不成立』ならば、声無常、主題。(x)を理解する比量の量が有ることになる。(x)は基体成立であるから。先の箇所で『その通り』ならば、声無常、主題。現前態ではないことになる。隠匿体であるから」と。遍充しない。「その通り」ならば、声無常、主題。現前態であることになる。事物であるから。
ある人が言う、「声無常、主題。現前には態ではないことになる。隠匿態であるから。」と。遍充しない。声無常、主題。隠匿態であることになる。基体成立であるから。
ある人が言う、「『現観荘厳論』、主題。認識であることになる。量であるから。『不成立』ならば、『現観荘厳論』、主題。聖言量であることになる。(x)は聖言たる量であるから。」と。遍充しない。「不成立」ならば、『現観荘厳論』、主題。(x)は聖言たる量であることになる。(x)は清浄なる論書であるから。
ある人が言う、「兎角、主題。隠匿態であることになる。比量の量の計量対象であるから。『不成立』ならば、兎角、主題。比量の量の計量対象であることになる。比量は量の計量対象であるから。」と。遍充しない。「不成立」ならば、兎角、主題。比量は量の計量対象であることになる。比量は一切種智の計量対象であるから。「不成立」ならば、兎角、主題。比量は一切種智の計量対象であることになる。比量は有るから。「不成立」ならば、兎角、主題。比量は有ることになる。人無我であるから。
ある人が言う「壺の対象普遍、主題。壺を捉える分別により把握されていることになる。壺を捉える分別の把握客体であるから。」と。遍充しない。壺の対象普遍、主題。壺を捉える分別の把握客体であることになる。壺を捉える分別の顕現客体であるから。先の箇所で「その通り」ならば、壺を捉える分別、主題。(x)により壺の対象普遍は捉えていないことになる。(x)は壺を捉える分別であるから。