2022.05.30
ཐོག་མཐའ་བར་དུ་དགེ་བའི་སྨོན་ལམ།

衆生を導く指導者となるために

ジェ・ツォンカパ『初中後至善祈願』を読む・第10回
訳・文: 野村正次郎

清浄な所学を慚愧なき心で破壊する

尊者が非難される悪業を畏れもしない

沙門の格好をして破戒している者たちを

私が瑕疵なき戒へと導いてゆけるように

23

道を棄て悪しき邪道へと向かっている

不善なる師や悪友に支配された者たち

そんな人々でさえ 勝者の称えた道を

なるべく容易く向かわせられるように

24

私が語り議論し記してゆく獅子吼の共鳴が

邪説を語っている狐の群れの威勢を奪い去り

それが教え導いている方便により彼らを摂取し

滅びることもない教説の勝幡を守り抜けるように

25

これから私は何処に生まれてこようとも

牟尼の教法の甘露により渇きを癒してゆく

よき家族 よき身体 豊かさを享受して

智慧をもち 長寿で無病であれるように

26

私のこの身体 この生命 豊かさに

危害を加えようという思いに駆られている

私に敵対し誹謗中傷してくる者たちでさえ

殊更により深く母の如く私は慈しまんことを

27

遠からず近い未来には彼らでも

自己よりも他者を大切に思う菩提心という

この殊勝な浄志を持つよう私は仕向けることで

無上の菩提の境位を与えることができることを

28

これらの祈りを眼にする人や耳に入れる人

あるいは想像しようとするすべての人々が

勝子たちが誓い給われたこの偉大な誓願の

すべてが実現していくのに躊躇わぬように

29

殊勝な志に動かされ善く編めた

この広大なる祈願の力が発揮して

祈願波羅蜜のすべては円満に究竟し

一切の生物の希望を叶えられんことを

30

以上、初中後に善たらんことを誓願するこの祈願は、多聞の遊行者ロサンタクペールがショトゥー・ペルのディクンティルで編んだものである。

仏門へと入門し、自分自身でそれを実践しようと三世の如来や阿闍梨たちの前で一生守り抜くと誓い、清浄で正統なる法統を授かったにも関わらず、約束を違えることを恥ずかしいとも思わずに、煩悩に塗れた心でその戒律を破ろうとしてしまう。如来や菩薩や賢者たちが、決してすべきではない、と様々な問題点を指摘し教えたのにも関わらず、わざわざと戒律に反することをしようとする。釈尊から借りている袈裟をまとい、如来の言葉を信じる善意の人々によって支えられている生活をすることができているのに、如来の教えを実践するための工夫をするのではなく、教えに反した破壊活動のための言い訳ばかりを探して暮らしてしまっている。自分たちは真面目に戒律を遵守しているようにしていれば、そんな破戒の輩たちは実にひどい有様である。しかしながら、そのような戒体護持ができない者たちをみて、嫌悪感や非難の感情を抱くべきではない。何故ならば、この無限の衆生たちは、如来たちがやるべきでない、ということばかりやってきたからいまそのような状態なのであり、私たちは利他という大きな目的のためには、彼らがなるべく悪業から離れ、戒体護持で善行へと向かえるように私たち自身がこの状況を改善していく必要があるのである。

あるいはまた、無我の教えを現観しようとする道を捨ててしまい、現世利益や世間の価値観に翻弄され、その仲間たちとともに魔の仕業に取り憑かれている人たちもいる。彼らの姿はかつての私たちの姿であると思うべきであり、そんな彼らをすべての仏たちが称賛する菩薩行へとなるべく苦労なく向かっていけるように私たちはしなくてはならない。魔に取り憑かれている人たちに難しいことを言っても聞いてくれることはない。私たちは彼らにやさしく語りかけ、決して彼らを見捨ててはいけないのである。

こんな私たちでもある程度学問を修めていくのに従って、いつの間にか道の先達であることが要求されることもある。ちょうどあまり道を知らないけれども、困った人がやってきて道を聞かれるのと同じようなものである。こんな私たちにでも仏教のことを聞いて来る人々がいるかも知れない。しかしそのような時でも決して自分勝手な解釈を披露するのではなく、正しい教えの伝統を授かった通りに、如来たちのことばを伝え、その意味を共に議論し、時には私信などの形で必要な人たちには必要なことを伝えていかなければならない。私たちは如来の獅子吼をそのまま彼らに伝えていくのであり、その獅子吼の響きは、誤った考えに囚われている狐たちの軍勢のような輩たちを圧倒するだろう。私たちは彼らを如来たちが示したのと同じような善巧方便でやさしく導いていかなければならないのであり、ちっぽけな一兵卒かも知れないが、如来の旗印を掲げているひとりの人間として、その任務を全うしなくてはならないのである。

これから先の将来で、私たちはどんな時代に、どんな場所で、どんな人たちに囲まれて生まれて来るのか現在は分からないし、その選択肢をももっていない。しかし私たちはどんな場所に生まれても、ふたたびこの如来のことばと思想からなる不死の甘露の教法で常に渇きを癒し、それによって育てられ、それによって生きる意味を全うしようとするのである。釈尊の教えを実践するために相応しい家系に生まれて来て、身体的にも生まれつき大きな問題もなく、仏教を実践するための豊かさを享受し、教えを聞き、思い、修習する知性をもち、できるだけ長く生きることができ、病に斃れて修行を中断しなくて済むようにならなくてはならない。

時には私たちの身体に危害を加えて来る衆生もやってくるだろう。ある者は私たちを殺すためにさまざまな手段を使って策略をめぐらせるだろう。あるいはすべての持ち物を奪い去っていくような者もいるかもしれない。彼らは私たちに口にするのも憚れる酷い言葉の暴力で殴打してくるかもしれない。だからといって彼らに対して私たちは反撃しなくてはならない、などと思うべきではない。私たちはどんなに自分が危害を加えられようとしても忍辱によって、その状況を克服していかなければならないのであり、そのような仕草でやってくる者たちは、実に哀れで悲劇的な運命を過ごしている人々に過ぎないのである。私たちは彼らが酷いことをすればするほど、その結果として彼らが味わうべき苦しみが耐え難いものになることを知っている。だからこそ、そのような者たちを母親が放蕩息子を何とかしたいと心から一層気にかけるように、私たちは敵対してくる者により一層愛情を注ぎ、彼らの苦しみが速やかに消えてなくなることを願わなければならないのである。

そんな悪魔に取り憑かれた人々でも、いつの日か気づくことはあるのである。彼らにも善業がなければ、彼らが快楽を享受していることなどあり得ない。彼らにも自分よりも大切にしたい他人というのがいるのであり、それと同じように自分よりも他の生物の幸せを願う気持ちが少しでも芽生えるのなら、それが慈悲や菩提心へと変わってゆく可能性があるのである。いますぐ私たちは彼らをそのような気持ちへと導くことができなくても、いつか私たちの方でも、そして彼らの方でも準備が整った時、そのような志を彼らが抱くことができるようにいまから願っておかねばならないのである。彼らに菩提心が芽生え、そして彼らも私たちと同じように菩薩行を実践し、彼らもまた仏の境地を実現できるようにしてあげることは、いまからでも少しずつできるのである。

このように私たちはかつてすべての如来たち、菩薩たち、先学の大乗の善知識たちと同じように祈りをいまここに捧げるのである。私たちがたったひとりであれ、仏前でこのように祈ること、それを眼にする人たちもいるだろう。そんな菩薩の祈りを行なっているということを噂に聞く人もいるだろう。あるいはまた私たち大乗の仏教徒のことを想像しているほかの衆生たちも無限にいる。彼らもまた私たちと志をひとつにして、菩薩たちの偉大なる誓願のすべてが実現していくようにしなくてはならない。そして私たちも彼らもみなが、この菩薩たちの偉大なる誓願が叶っていくことに、微塵ほど躊躇いがあることや、畏縮してしまうことがない状態が継続していかなければならない。

以上が発菩提心・六波羅蜜の修習に続く、後善を祈る祈願の内容であるが、本詩篇を締めくくる善の廻向の詩偈としては、本詩篇は一切衆生の苦しみを取り除くために、自分に責任があるという増上意楽、すなわち殊勝な志によって編んだものである、と記しており、この広大なる祈願は普賢行願讃に準ずる広大なる菩薩たちの祈りをジェ・ツォンカパが自分の言葉で表現したものであり、その祈りを捧げる功徳がまた、すべての衆生たちの希望が残りなく叶えるための糧とならんことを願い、本誌編を締めくくっている。本誌編は初・中・後に善たらんことを祈るものであり、この詩篇全体はジェ・ツォンカパが自分自身の生涯を回想して綴っている、

初めには多くを聴聞することを求めた
中間には一切教説が教誡として現れた
後には昼夜のすべてでそれを受持した

という回想の辞と合わせて理解するべきものであり、同時に、初・中・後、すなわち何らかの行為の前段階・途中の段階・その行為が終了していく段階のそのすべて、すなわち修行のはじまり、途上、ひとつひとつの修行を全うしていくそのすべてにおいて善なる菩薩の意志を貫き通せるように、と無限の衆生たちのため、無限の利他を実現するために、無限の内容を祈るものである。ここでジェ・ツォンカパが述べている祈りは、あくまでも個人的な営為ではある。しかし大乗の仏教者たらんとする私たちのすべてが最終的には一切衆生の指導者となるために菩薩道を進んでいるという自覚に基づく普遍的な祈りであると思われる。私たちは再びここに生まれ、再び仏教を修行する選択をし、善知識に師事し、聞思修を積み重ねて最終的には仏となり、一切衆生を利益する救済者となることを目指すこと、これが大乗の祈りが目指している方向性であり、そしてそのことは衆生済度のために菩提を求めるという発心の貫徹にほかならない。

ここにも「これらの祈りを眼にする人や耳に入れる人あるいは想像しようとするすべての人々が」とあるように、読者のみなさまが無上正等覚を得るための祈りの手がかりにこの翻訳が役立つことを祈りつつ、明日からのサカダワの良き日々にこのジェ・ツォンカパの祈りにならっていきたい。

初中後至善祈願 →
本詩篇の全訳はこちらから

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