2022.05.22
ཐོག་མཐའ་བར་དུ་དགེ་བའི་སྨོན་ལམ།

如来の母君を求め、善知識に師事できるように

ジェ・ツォンカパ『初中後至善祈願』を読む・第5回
訳・文: 野村正次郎

数々の教説と証解の功徳で心が満ちていて

落ち着きがあり自制されているがやさしい

利他を労ともせず実行する勇ましさもある

そんな勝れた善知識に師事できますように

7

常啼菩薩が法上菩薩に師事なされたように

この身体と生命と所有物に心を奪われもせず

勝れた善知識へ献上しお慶びいただけるように

ひとときでも歓びに影がさすこともないように

8

甚深で寂静で戯論を離れた般若波羅蜜の

その奥義を誤解で穢してしまわぬように

常啼菩薩へと説かれていったそのように

私にも常に教えが授けられ続けるように

9

牟尼の密意が目指すものとは外れている

常断の見解を説こうとしている教師たち

不善の業をなすための罪業の悪しき友たち

彼らの支配下には決して下らないように

10

未来において、またいまと同じように暇とゆとりのある人身を受け、さまざまな善意の人々に囲まれて、この輪廻へのすべての期待を捨て解脱をもとめて出家する。正しく戒律を授かり、釈尊と仏弟子たちから受け継がれてきたわずかばかりの持ち物を借り物として所持し、このすべての母なる一切衆生たちをすべての苦しみから解放するために、広大無辺で甚深なる大乗の正法を学ぶ決意を新たにする。一切衆生を救済できる仏の境地にまで達するには、不屈の精神で精進しなければならないが、私たちの心は弱く、時にはくじけそうになる。道を歩むには、先に道を正しく歩いている先達の跡をおいかけていくことは不安でなく、安全である。遊行者になったのは、いろんな場所にいって楽しく怠惰な享楽的な暮らしをするためではない。今日もここにもそこにいる、私たちのこの恩深い母親たちのため、如来の道を示してくださる師をもとめて、師と出会わなければいけないのである。

私たちが求めている師とは、如来のことばに通じている方である。常に釈尊がどうおっしゃったのか、ということを確かめることができ、その釈尊のおっしゃった内容をきちんと説明してくださる方々である。彼らはまるで経典のなかからでてきたように、その世界に常に生きておられ、私たちのようにあたふたしておらず、常に冷静沈着で、美しい戒律の衣を身にまとわれておられる。彼らのやさしさは決して変わることもなく、どんな時にでも常に私たちをやさしく見守ってくれ、理解力が足りなくても決して私たちを見捨てられることもない心の広さをお持ちである。彼らは私たちのために、たくさんの貴重な教えも教えてくれるが、ちいさな虫が雨のあとに溺れそうになっていると、近づいていって、小枝で橋をつくってあげたりする、といったこと小さなことでも積極的になされている。

私たちはそんな師たちに出会い、仏法の扉を開いていただく。まずは私たちがそんな師に出逢えたことの歓びをかみしめて、釈尊が般若経で常啼菩薩が法上菩薩へと般若波羅蜜の教えを受けるためになされた数々の偉業のように、差し上げるものもなくて自分の身体を売り飛ばそうとしようが、私たちもまた自分の身体から少々血が滴り落ちようが、そんな小さな自分の痛みを気にして求法の気持ちを諦めてはならないのである。常啼菩薩は法上菩薩に献上する品をつくるために、自分の肉体を売り飛ばそうとしても、買い手がつかないように悪魔たちに邪魔をされたが、決して諦めたわけではない。帝釈天が常啼菩薩の身売りの意思を確かめようと化現して近づいてきた時でも、常啼菩薩は帝釈天が常啼菩薩の身体を神々へ捧げる生贄として使いたいと話されると、自ら剣で自分の手足を刺して、自分の肉体をさらに切り分けようと壁際までいき、まな板がわりに壁を使おうとされても、決してやめようとされなかったことを私たちは、真摯に受け止める必要がある。

常啼菩薩が法上菩薩へ師事して、聴聞しようとしたものは、般若波羅蜜である。この般若波羅蜜は如来たちの母君であり、常啼菩薩は如来たちに、その如来たちの母と呼ばれる教えを聞くために、身体的な疲労感にも執われることもなく、倦怠感や睡魔に克服し、飲食にも気に取られず、昼夜を問わず、寒さにも暑さも気にかけず、東に行こうが、南に行こうが、西に行こうが、北に行こうが、どこに行こうとも、ただ般若波羅蜜という甚深無量の微妙法を求めなさい、という声にしたがって衆生済度のため、求法の一心でありとあらゆることをして善知識に奉仕しようとしたのである。そしてこの求法の精神こそが善知識との出逢いを実現させ、善知識へと入門できた後には、正しい師事作法に従った師事しつづけなければならないのである。

正しい師事作法によって師事することができる、というのは、まずは決して自分勝手な考えをもつことはなく、師への忠誠心を揺るがすことなく、師が説かれたその通りに、常日頃放蕩息子のようになるこはなく、師の表情や判断を常に伺いながら、道を進もうとしなくてはならない。そして師への敬意を決して疑うことはなく、魔物たちでも決して壊すことができないダイヤモンドのように固い指定関係を築いていかなければならない。師が必要となされることはすべてその通り実現するように努力をし、仏法を教えてくれる師には不動の信心をもつ必要がある。

師事作法においても最も重要なのは信心である、ということをジェ・ツォンカパは繰り返し説いているが、常啼菩薩の法上菩薩に対する信心もまたこのことの重要性を説くものであり、私たちはかつて仏弟子たちが釈尊に不動の信心をもって、衆生済度のために解脱と一切相智を目指したのと全く同じにように、どんな時でも、善知識たちが私たちに教えてくださるすべてのことは、釈尊が私たちに教えてくださっているのだ、と思いながら耳を傾けていかなければならないのである。そのためには真の自己とはこういうものである、と説く我論に耳を傾け、前世・来世などはなく、因果応報や縁起は存在しないという断見に陥ってしまわないように気をつけなくてはならない。私たちは如来や善知識、諸尊たちの功徳だけを思うべきなのであって、欠点や問題点を探そうと妄想や偏見を膨らませていくべきではない。というのも、人は何か他人のあらさがしや欠点のみに執われてしまえば、その妄想に支配されるようになり、正しく冷静に物事をみることができなくなるからである。しかるに常に私たちの心が魔物たちに支配されないように、常に自分たちの心を監視し、正常な機能を維持できるように努力していかなければならないのである。

以上これらの四偈は、出家して大乗法を求法しようとする時に、正しい善知識に出会え、正しく奉仕して師事し、正しい信心をもって堅固な師弟関係を構築し、決して不敬の罪業へと陥ることもなく、魔物たちにも左右されない求法の徒としてありつづけることがこの先未来永劫可能となりますようにというジェ・ツォンカパの祈りを表現したものである。「すべての生において、正しい師匠たちと離れることもなく、正法の栄誉を享受することできて、仏地仏道の功徳を究竟し、執金剛位を速やかに得んことを」という有名な廻向文があるが、ここでの祈りの趣旨もこれと同趣旨と思われる。

般若波羅蜜を法上菩薩から聴聞するために自分の身体を切り刻む常啼菩薩(梵本『八千頌般若経』写本・ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)

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