2020.08.24
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

最早これ以上、こんな処に留まる価値など何もない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第108回
訳・文:野村正次郎

欲望というこの塩辛い水は

どれだけ飲めど渇きを癒さない

海や川で凍えている雁のように

この有を厭って脱出するべきである

109

チベットの湖や川や北の海で楽しく群れ優雅に遊んでいる雁たちも、冬になるとヒマラヤを超えて南下してインドへと飛びたっていかなくてはならない。どんなにその場所を気に入ろうとも、そこにずっと留まっていてもよいことはない。

これと同じように欲望によって再生する三界輪廻に止まっていても苦しみしか味わうことはできない。たとえ人間の王となろうとも、神々に転生し世界を支配しようとも、それはほんの一瞬であり、それは草葉の露のように一瞬にして消え去る儚い快楽である。

出離心は、主に輪廻の過失を思うことによって培われるものである。苦諦を知ること、業と煩悩の集諦を断じようと思うことが、その具体的内容となる。生老病死の四苦、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦といった四苦八苦は比較的有名であるが、六苦として数えられるものは、ナーガールジュナの『勧戒王頌』で次のように説かれている、

(1)立場が定まっていないこと、(2)飽くことがないこと、(3)肉体を何度も捨てなければならないこと、(4)何度も結生相続しなければならないこと、(5)何度も善趣・悪趣を上下して巡ること、(6)何らの支援者もいないこと、これら〔輪廻の〕過失は六種ある。

『勧戒王頌』

と説かれるものである。

このうち第一のまず立場が定まっていないこと、輪廻に流転する限り、ある場合には、父は子となり、ある場合には子は父となる。母であったものが妻になったり、自分の孫娘になったりする。敵対している者が無二の親友になり、無二の親友が宿敵になったりする。このように輪廻は無限であるので、私たちが他者と接する時の関係性は何ひとつ決まっていない。これは前世・来世を考えた場合はもちろんのこと、同じひとつの今生においても、様々な形で変化するものであり、他者の立場、自分の立場が何一つ定まっていないからこそ、他者との関係を構築すること自体に、非常に大きな支障が最初からあるのである。

次に「飽くことがない」「欲には際限がない」とは、本偈で説かれているものであるが、我々が楽を享受したいと思うこの欲望は限りがなく、決して満足感を得ることができない、ということである。何故このようなことになるかとえいえば、我々が享受しようとしている楽はあくまでも「壊苦」であり、常にある特定の苦の享受量と比較して、苦の減少分を「楽」であると錯覚していることによってそれは起こっていることに起因している。これは相対評価によってのみ楽を享受しているということあり、常に比較対象となるより苦の享受量を想定するだけで、忽ちにしてその楽は苦へと変化するからである。苦の享受量の相対評価によって飲み、楽を感受できなから、ある特定の楽が起こっている場合に、その楽の享受自体を楽の継続状態であると認識することができなくなっている。しかるに欲望は無限に続き、もう十分であるという認識を抱くことは、貪欲が生起することを根絶させない限り、この悪循環は永遠に継続してゆくのである。

出離心を形成するその他の苦観としては、苦苦・壊苦・行苦を思うというものもあるが、いずれにしてもこの実に不安定な破滅してゆく場では、どんな意思をもっとうとも際限はないものであり、その状態が無始以来継続しており、これからも継続してゆく悲劇の悪循環を断ち切って、この輪廻から解脱しようとする明確な意思表示ということができる。

一羽孤独に飛び立つガン

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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