2020.07.15
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

魚たちが遡上できるように、私たちも善へと向かえる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第99回
訳・文:野村正次郎

いまこの三門の不善行により

来世には悪趣と決定している

山の頂きから流れ出した水は

渓谷を巡り低地へと流れてる

99

本偈は我々の身体的行動・言動・思考様式は概ね不善を行じており、ほぼ悪趣へと赴くことが決定していることを、水が高地から低地へと流れていく現象に例えている。高いところから低いところへと川が流れるように、悪業に身を委ねて生きることは極めて簡単である。

天・人よりも善趣より畜生・餓鬼・地獄といった悪趣の方が圧倒的に個体数は多い。しかるに私たちは善趣へと転生するよりも、悪趣へと転生することの可能性の方が確率的にははるかにに高いことになる。何故ならば衆生の精神状態は善なるものより悪なるものの方が蔓延しているからである。従って単純に来世の転生先は、六道輪廻のそれぞれ六分の一という確率ではない。そこの六通りに合わせて、生物の個体数比率の変数、我々の善行・不善行の対比による変数を代入して計算しなければ、来世に悪趣へと転生する可能性を具体的に算定することはできない。しかし、それらの変数を考慮して計算すればするほど、善趣に生まれる可能性は低くなり、悪趣に生まれる可能性は高くなる。

「私たちの前世がどうだったのか、それはいまの自分の身体を見れば判りますよ。私たちの来世がどうなるのか、それは自分たちで決めることができます。来世がどうなるのかは、いまの自分の心を見れば判ります。」

これはケンスル・リンポチェがよくおっしゃっていたことである。もしもいま我々が十分に来世に希有なる天人の境涯に生まれるほど善に勤しんでいるのならば、問題はない。しかしながら多くの場合には、その逆なのではないだろうか。

私たちの心は二十四時間三六五日、途絶えることなく何らかの業を積んでいる。自分の精神状態を善なる方向に向けるのか、もしくは悪の方向へと向けるのか、これは自分慈信で出来ることである。そこには我々の自由意志が反映できる。不善の方角を向いているのならば、その先には悪趣へと転生するという結果が待ち構えている。だからこそその方角へ心を向けることをやめ、善なる方向へと心を向けなければならない。その先には天人の境涯があるだけではなく、すべての幸福と繁栄、そして仏の境地が待っている。

本偈に喩えらえるように善の方向へと心を向けることは、高いところから低いところへと水が流れていく流れの逆へ進むことである。鮭や鮎などの一部の魚は、瀧や堤などを飛び越えて、上流へと自分の意思で遡上していく。下流域へとだらだらと流されて暮らすのではなく、我々はこの魚の遡上のように果敢に上流域へと遡上していかなければならないのである。

鮭がジャンプして遡上している様子

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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