2020.07.13
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

いつも波を見つめ、波に流され、波に乗り、波に溺れていく

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第97回
訳・文:野村正次郎

いくら達成しようとも際限のない

世間の所業は見限るべきなのである

波の紋様はひとつひとつ続いてゆくが

どんなに追いかけても掴める時はない

97

我々仏教に関わる者は、世間の活動に過度な期待をもつことなく、常に出世間の価値観を規範として生きるべきである。何故ならば、世間の活動はいくらひとつひとつのことを達成できても、際限なく、次から次へと様々な問題が発生し、それに関わっている限り、なすべき大切なことを忘れてしまいがちになるからである。

世間の活動が際限がないのは、何かを実現しても、その先には次のことが待ち構えているからである。今のことよりもっと良いもの、もっとよい別のやり方、別の視点、そういうものが常に存在する。絶対的にこの道を通るべきであるということは、決まっておらず、大部分の人がそうしているから、自分もそれに続いてみよう、というあやふやな理由しかない。そして曖昧な動機に流されて、私たちの日常は矢のように過ぎていく。

世間の活動を何かひとつのことを実現するためには、無論有る程度の福徳が要求されている。しかし、それをたとえ実現できても、際限なく次なる仕業が待っているという状態は変わりはない。それによって得られる束の間の幸福や快楽も有漏の快楽に過ぎない。たとえ人として生まれ善業を積み、来世で天界に生まれ、快楽のすべてを享受しても、いつかは死に、更にまた別の生へと転じ、苦しみから苦しみを梯子しているのに過ぎない。「壊れてゆく拠り所」という意味をもつ「世間」での期待を棄て、束の間の繁栄や衰退に一喜一憂することなく、世間とは折り合いをつける必要がある。

仏教では隠遁や厭世、そして厭離穢土といったことを説いてきた。これは貴重な人生を世間の活動で無為に過ごしてはいけないために、私たちは世間に背を向けて後ろ向きに生きていかなくてはいけない、という方向性を示しているものである。世間の向かっている方向性というのは、有漏の束の間の快楽であり、それは聖者から見ると壊苦に過ぎないものであり、世間の活動のそのすべては、五蘊盛苦を実現するための、煩悩と業に起因したものであり、その煩悩と業は、我執からなる自己愛とその延長線上にある一切の感情に起因するものである。これに対して出世間の向かう先とは、解脱や一切相智の境位であり、それは世間が目指している物質的繁栄や来世における繁栄を目的として目指している。

世間の活動は、現在私たちが持っている福徳を消費して、快楽を享受する、という方向性にある。これに対して出世間の活動というのは、既に私たちが持っている福徳であれ、これから積集する福徳であれ、そのすべては一切衆生を利益するために我々が成仏するために廻向するものであり、現在私たちが持っている福徳を消費するのではなく、それらはどんどん他者によって利用してもらいながら、自分は新たな福徳を積んでいくという方向性にある。だからこそ、ひとつひとつの福徳によって得ている享受物を他者に積極的に施すことができるのである。そしてそれが布施波羅蜜の動機付けとなるのであろう。

人として生を受け、次から次へと押し寄せてくる波の傍観者となってもよいし、高波に溺れてしまう者になるともその人の自由である。時には波に乗って凡人が辿りつけないところまで進んでいくものもいる。しかしこの次から次へと波打っている波はあくまでも世間が向かう方向にしかゆかないのであり、私たちは波に乗ろうとすることや波を追いかけようとすることをやめ、発送を転換し、波を起こす者になるべきであるということを説いている。波を見つめる者、波に流される者、波に乗る者、波に溺れる者、これらは世間の波の向かう方向である。私たちはその方向とは全く異なる、新しい波を起こす者になるべきである。

小さな船でも波を起こす者になることはできる

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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