2020.05.19
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

悲劇的な運命を分析し、真の楽観主義を獲得するために

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第55回
訳・文:野村正次郎

知性も努力も乏しき人は

福徳を得るとも翳りがでる

流れ込む水が断たれては

池の水もすぐに枯れてしまう

55

錬金術によって水銀を黄金に変化させるためには、哲学者の石、あるいは賢者の石と呼ばれるものが必要であるとされているように、哲学と求道的な努力というものは極めて重要なものである。物事を成功へと導くためには、どのような哲学や思想によってそれぞれの選択肢を選ぶのか、ということが重要な決断となり、同時にその決断にしたがって大きな目標を実現するために不断の努力が必要となる。

仏教は神がこの人間世界を創造したと考えない宗教であり、神が救いの手を伸ばして人々は何もしないでも救われると説いている宗教ではない。業によって世界は創造され、業によって我々の様々な結果が作用される、という、業は思考のひとつであり、その思考内容を実現するのは、精進だけしかない。私たちは未来において、よりよい享受を受けよう、よりよい世界を実現しよう、そう思う限り、いま現在の自己の分析力と努力にしか何も寄るべきものがない、そう自業自得の考え方は教えている。

浅薄な知識や見せかけの努力によって何か、偶々よい結果が起こることはある。他者からは見えないその者が積んでいる善業の果実が実っているのである。しかしながら得ている善業の果実を消費してしまい、更なる努力や知性をもとうとしないのならば、盛者必衰の理によって、その果実は無残にも忽ちにして灰と化してしまう。どんなに豪華絢爛な生活をし、一世を風靡した人間ですら、火葬場の炎で焼いてしまうのならば、ほんの僅かの時間でほんの灰にしかならないものである。我々はそのことを敢えて見ないことにして、様々な虚飾の人生を過ごしているのである。

無常や苦、そして死に関わる教えはある意味では悲劇的なものである。宗教を嫌悪する人々は、そのような人々の恐怖を煽動するドグマを忌み嫌い、現世の虚飾によって享楽的な価値観を推奨している。しかしながらそれらの偽りの価値観を静かに分析してみるのならば、そもそも享楽的な価値観には何らの根拠もないし、陳腐な運命論によって支えられている場合が殆どであることに気づくだろう。無常や苦、そして死といった人々にとって絶対的に不可避な畏怖を与える概念は、別の角度から見れば、未来は必ず変化することができるものである、という概念であることに知性がある者ならば気づくだろう。業障の深さとそれが生み出す悲劇的な運命を我々は分析すればするほど、私たちの小さな努力や営為が無限の未来の可能性へ扉を開いてくれることが分かるようになるのであり、ここに真の楽観的な視座が生まれるのである。

努力を怠る懈怠のひとつに、自己の能力にはその努力は報われない、という自信喪失状態があると仏教では説いている。この自信喪失状態は前偈に説かれるような表面的な安易な価値判断によって形成されている。菩薩たちは菩提心という馬に乗って次から次へと駆け抜けていくことに疲れることを知らない、そうシャーンティデーヴァは説いている。疲れた時には少し休めばよい。仏教における精進というのは、必ずしも常に100%の力を振り絞って、力尽きてしまいなさいと教えているものではない。チベットの僧侶たちによれば、80%くらいの実力で努力し、残り再び努力をしようとする余地を残しておく、ということが継続的な精進を行うための智慧である。所謂、余白の美学は、そんなところにも活きている。仏になるための糧は福徳と智慧の二資糧である。仏教は思考停止をして盲目的な努力をしろという宗教ではない。このことを忘れないで居たいものである。

すべての人は泥のなかにいても福徳と智慧を積んで仏になることができる

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