2020.05.02
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

本来私たちの周囲は善意の仕業に満ちている

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第38回
訳・文:野村正次郎

無愧な人たちを助けても

用事が済めば忘れられる

河の向こうに渡れれば

乗った船には見向きもしない

38

無慚・無愧というのは、心所法のなかでは随煩悩に属する。随煩悩とは、貪・瞋・慢・無明・見・疑の六つの根本煩悩に付随して起こっている、もしくはその一部たるものであるので、「随煩悩」と呼ばれている。まずは無慚・無愧の定義について『阿毘達磨集論』に基づいて説明しておこう。

悪行を対象として、自分自身もしくは法を根拠として、それを慎むべきことである、と思わない感情を「無慚」といい、同じく悪行を対象として、利他を根拠として、それを慎むべきことである、と思わない感情のことを「無愧」と呼んでいる。この二つは六根本煩悩のうちの無明から発生するものである。

慚愧は、両方ともが同じように悪しき行為を慎むべきであると思う感情のことであるが、それが自分のためにはならない/法として間違っているので慎むべきであると思うのが「慚」であり、他者のためにならないことを根拠に起こ慎むべきであると思うのが「慚」ということになる。「慚愧に堪えない」という表現は現代でも謝罪を表明するときに使われる言葉であるが、それを使っている人たちがどこまでこの慚愧という感情について理解しているかは不明である。慚愧は、四端の羞悪と対応する感情であるが、羞恥心や「恥」という感情とは、若干異なることには注意が必要であろう。

ルース・ベネディクトは有名な『菊と刀』のなかで、日本人には「罪の文化」(guilt culture)はなく、「恥の文化」(shame culture)であると分析しているが、古来日本では恩義や名声、そして恥という社会的な他者の視点を前提とした倫理道徳観を形成してきた傾向にある、と述べているが、この仏教における「慚愧」というものを重要であると考えるのは、社会的に自分がどのように評価されたり承認されているのか、ということとは無関係なことである。「恥の文化」(shame culture)においては、慎むことの根拠となるのは、他者の評判であるが、「慚愧」の感情が発生する根拠は、その行為によって達成する効果が自己もしくは他者のためにならない、と客観的な事実に基づくものであり、社会的な名声や評判とはあまり関係がないのである。

もう少しわかりやすい例で説明してみよう。

たとえば家のなかに蚊が飛んでいるとする。誰か客人を食事に呼んで、一緒に食卓を囲んでいるときに、蚊が飛んでくる。この時に客人に向かって「済みません。恥ずかしながら先ほど窓を開けていたので蚊が食卓に入ってきていました。ごめんなさい」と謝罪して、蚊を殺そうとすることは、「恥」の感情であるが、これは無慚・無愧であり、無明より起こったものである。

この時、そのように思わないで、蚊を殺すことは、自分の悪業となるし、殺生は在郷であるという教えを思い出し、殺すのはやめておこうとする。これが「慚」である。客人は仏教について何も知らないので、その蚊を殺そうとする。しかしその行為は悪業であり、その客人の来世の幸福のためには殺生は慎むべきであると思う。そこで、急いで窓をあけて扇風機や団扇を使って、蚊を窓の外に逃してやる。これは慚愧による善業のひとつとなる。しかし無愧なこの客人は、その行為が善業であると感じない。彼にとっては蚊にさされなければ、それでいいのである。なので、蚊が無事に窓からでていければ、実にありがたいことだ、素晴らしい善業だとは感じないだろう。むしろ心のなかで「私は客人であるので、客人の食卓に蚊がいたけど刺されなかったので、まあよしとしよう」といった感情を抱くかもしれない。しかしこれは無知であり、慢心にほかならないのである。このように考えていくと、慚愧の念というのはそんなに簡単なことではない、ということが分かるだろう。我々は常に他の生物の感情を想像したり、ひとつひとつの行為の善悪を分析しながら、日々過ごさなくてはならない。

本偈ではそれを船のたとえにたとえている。船で対岸に行ったときに、船がなかったらこっちには来れなかったので、船があってよかったな、幸せだったなと思う人は実に少ない。だからこそ船で渡れたことの幸福を感じることができないのである。我々の周囲の多くのものが、他者の善意や善業によって形成されている。そういうものを注意深く観察すると、私たちのいま生きている空間は、より吉祥な空間であることに気付けるのではないだろうか。

船を漕ぐ人や船がなければ川を移動することはできない

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