2020.04.22
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

毒水を浴びるように呑み干す悪友たち

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第28回
訳・文:野村正次郎

付き合えば善行が増えるか減るのか

それが善友か悪友なのかの違いである

透き通った冷たい同じ水であろうとも

利害により薬水と毒水があるように

28

チベットの諺には「盗人に従えば盗みを知る。法に従えば法を知る」というのがある。善業を行う仲間を善友といい、悪業を行う友を仲間を悪友という。彼らと交わることによって善業は増え、彼らと交わることによって悪業が増える。人としての表面的には変わらない存在であるが、実際にそのようなことに巻き込まれることがある。我々の人付き合いというのは、透明で冷たい液体でも、薬としての効果を果たす水と毒になるような水とがあるように、私たちに様々な影響を及ぼしている。

グンタン・リンポチェは、別のところで悪友の厄介なところは、角を生やしたような自らが悪友であるという格好では近寄ってはこない点にある、と説いている。。悪友は、むしろ愛情深く、私たちに役に立つ、上手い話を、微笑みを持って持ってくるものである。実際には大して害がないように見え、その人付き合いによって人生を結果的に無為に過ごしてしまうことになる、という。

悪業を行う友とは、所謂十不善を行う友、在家の五戒に違反したり、別解脱戒・菩薩戒・三昧耶戒という三律義や出家の戒律に違犯する友ということになる。十不善とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見であり、五戒であれば、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒であり、出家の戒律であれば、邪淫ではなく淫行となり、沙弥戒・沙弥尼戒・比丘戒・比丘尼戒などに違犯する行いのすべてが悪業となる。

また三宝に帰依しているのが仏教徒としての最低条件であり、三宝に対する不敬行為もまた悪業と言うことになる。仏に帰依する限り、どんな仏像などに対しても、それは如来そのものであると想い、礼拝するなどして敬い、仏像の好悪を語ったり、資産価値をつけ売買したり、地面に直接置くなどしてはいけない。法に帰依するので、仏説の経帙もしくは一文字以上の文字列は法宝に等しいと想い、礼拝供養せねばならないのであり、地面においたり、商品化したり、低い所に置いたり、靴等と一緒に携行するべきでない。僧に帰依するので、どんな僧衆に対しても派閥意識をもつことなく、ひとりの出家者がいてもそれは僧宝そのものであるという想念を起こし、袈裟の一部でも、汚い場に放置するなどは為すべきではなく、清らかな場所に移動させるなどしなくてはならない。

具体的には、釣り仲間、狩猟仲間、飲み仲間、おしゃべり仲間などほとんどの我々の友だち付き合いが、悪友との付き合いということになる。また仏像の資産的な価値をつけて、仏教美術と称して、「秘宝」などの美術展に美術鑑賞として仏像展などに一緒にいく仲間も、悪友ということになる。お寺でコンサートを開催し、僧侶たちに歌舞音曲の実演を強要したり、そこで酒宴を開催するなどということも悪友の集いである。また因果応報を否定したり、大乗非仏説を唱えたりするのはすべて邪見である。しかるにそのような考えを共有する仲間も悪友であると言うことになる。

悪友と完全に付き合わなくすることは実は大変難しい。少なくとも俗人は経済活動をしていく上で、悪友との付き合いは完全にやめなければいけない、というのは難しいことなのであろう。しかし少なくともそれは悪行が増えることなので自粛しよう、という思いをもち、なるべくそういう不要不急な付き合いを減らしていくことはできると思われる。日本の社会が、今回の緊急事態という逆縁を利用し、そのような善資へと変えていくことができるのならば、これほど良いことはないだろう。

楽しいパーティは本来は不要不急のものである

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