2020.04.07
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

すべての人が品のある美しい行いをすべき時に

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第15回
訳・文:野村正次郎

品位のある美しい行いは

主人と民衆の善資を高め合うのである

それは大きな海と数多の河川とが

互い助け合っているのに等しいのである

15

いよいよ日本でも首相から緊急事態宣言が発令された。都市の封鎖や行動監視などは行われないが、これまでの行動の8割を慎んで日本国民が不要不急な外出行動を自粛し、ひとりひとりが行動変容することで、少なくともこの日本では1ヶ月後、6週間後には大きな状況の改善が期待できる、というものである。本偈はちょうどいまの情況に即した内容ではないか、と思われる。

この詩篇に対するチベット亡命政権の文科省発行の注釈書よれば、本偈の内容は具体的に次のように説明されている。

品位のある美しい行い、とは何かといえば、仏法僧の三宝帰依すること、因果応報を思い、悪業を慎み、善業を行うこと、親や長老の者をきちんと敬うこと、徳のある人を尊敬すること、弱者に対して愛情と思いやりをもつこと、個人的利益ではなく公共の利益を優先すること、こういったことが世間的な品行方正な行いである。

民衆のなかで指導的な立場にたつ人間は、基本的にはこのような世間の美徳を備えていることによって、そのような立場にある。世俗的権力や繁栄も基本的には善業を積んだ結果として得られるものであるからである。しかしそのような立場に幸運にも立てた場合にも、他者を利益しようという責任感をもち、民衆を私的に差別することなく、愛情をもって指導していかなくてはならず、民衆の側でも指導者の言葉を軽んじることなく、指導者の要請の通りに実行することによって、相互に高い境地に達することは必ずできるのである、と説いている。この例として深い底知れぬ大海からできた雲が雨を降らせ、それが川になってまた海へと戻ってくるように、お互いが相互作用することによって高めあうことができる。それと同じようなものである、という。

このような考え方は全体主義的で原理主義的統一を説くと考える人もいるかも知れないが実はそうではない。善業とは、社会的なものでなく、個人の問題であるからである。律した正しい行いをすることは、他者に評価されるために行うものではなく、自分自身が他者との間でどう在るべきなのか、という問いから生まれてくるものである。仏教で説かれている不殺生や不偸盗もまた、社会的な規則なのではなく、あくまでも個人の道徳観や倫理観を説いたものである。

少なくともいまの日本で不要不急な外出を控えて、感染拡大防止を目指して生活するのは、明らかによい方向へと向かうことである。交通機関が封鎖されるわけでもなく、たとえ外出しても逮捕されて拷問され、殺されるわけではない。電話が盗聴されているわけでもないし、日本政府を批判した発言をしても、銃をもった警察が家にやってきて連行されて何処かで殺される訳ではない。チベットではそんな恐怖の時代がもう60年も続いてきたが、日本は幸運なことにそのような時代ではないのである。これから二週間は、行動の7、8割を自粛しようという呼びかけである。仏教では身口意といい行動・言動・思考の三つによって行いを考える。すくなくとも私たち仏教に関わる者たちが、これから二週間、不要不急な行動を慎むだけではなく、不要不急な言動や不要不急な思考も8割くらい自粛してみるとどうなるだろうか。二週間後にはよりよい世界が開けていると思われる。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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