2020.04.05
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

山の方から、街の方から

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第13回
訳・文:野村正次郎

河川は共有する供物である

日月は共有する燈明である

賢者は共通に戴く冠飾である

正法は共通に飲む甘露である

13

人の生はそんなに長くはない。そんなに良いものでもなく、そんなに悪いものでもない。ひとり散歩をしていると孤独と絶望に襲われるかもしれない。自分の生き方は何たる醜いものなのか、そんなことにふと気づく。だからこそ人は花を愛で、小さな生き物を愛らしいと感じるようになる。聴こえてくる鳥の啼き声はどんな音楽よりも美しく、蜜蜂が集う花の蜜はどんな砂糖菓子よりも甘く美味である。ここで朽ちて死のうとも、自分はひとりではなく、常にやさしく自分を取り囲んでくれる存在がいる。

しかし人は成長していくのと同時にそれだけに飽き足らず、人の多いところへと集まっていく。そこは街と呼ばれる場所である。街へ行くとこれまでは味わえなかった栄華も味わうことができる。贅沢なご馳走にもありつける。しかし同時に意地の悪い人に虐められたり、世の矛盾に押しつぶされることもある。

街があるところには人がいる。日本であれば街があるところは山や丘を下ったところであり、海や川からは少しだけ離れたところである。そんな街では人が多過ぎて、誰が誰だから分からなくなるので、さまざまな呼び名で人を呼ぶようになる。呼び名は人をその呼び名に似つかわしい人であることを要求し、そしてその要求される仕事をしなくてはならなくなる。しかし歳を取るにつれ、自分の呼び名に期待されてこともできなくなっていく。そして呼び名を返上し、引退して街からそれほど離れていないところへと離れていき、丘の上や山の方からかつて自分が自分が活躍していた街を眺めながら暮らすようになる。引退して街から離れた暮らしも孤独ではない。昔自慢をしあえる老人仲間がいたりして、将棋や囲碁を楽しんだり、神仏に祈ることも一緒にやったりできるのである。しかしひとりひとりと友達はいなくなり、自分もそろそろからなとこの世と別れる準備をしなければないけない。かつていたあの街、そこにはもう戻ることはない。街の方に集まっていき、そしてまた街の方から分散して離れていく。こんな不思議な運命を私たちは過ごしている。

街からすこし離れると、いままで見えなかった景色も見えてくる。何もかもが変わったことは確かである。あんなに流行していた洋服はもう誰も着ていない。あんなに有名だった美人歌手もいまはスナックでカラオケを歌っているらしい。何万人の応援団に応援された野球選手も、潰れかけの焼き鳥屋「〇〇の店」を必死できりもりしているようである。彼と結婚したあの超美人の女優さんも、いまは炭火に塗れたおばあちゃんになっているのだけれは間違いないだろう。子供たちに自慢話をしてみるが、「ああまたはじまった」という冷笑を抑えた慈悲に救われているはずだ。

街を眺めると変わってしまったことばかりのようだが、その上の天空とその下の大地は、あまり変わっていない。大地には河はゆったりといつもどおり流れているし、カラスの鳴き声とともに朝の太陽は人々に活動開始の命令を発している。夕方になると月がでて仕事を中断させ、宴会や団欒の時間に光を注いでいる。人々が混乱しそうになると賢い専門家が出てきては、これからについて教えてくれている。彼らが教えてくれるのは遠くインドのブッダの教えである。それらはいつも変わらず、人々にもっとも素晴らしいひとときをもたらしている。

そろそろお迎えの時、これからはどこかに旅にでるのだろう。しかし幸にこの最も素晴らしいものたちは、誰にも独占されることはない。私の人生に彩りを与えたのと同じように、これからもすべての人の共通の財産であり続けてくれる。旅から私が再びここに戻ってきても、きっとそれらはすべての人をやさしく迎えるはずである。


RELATED POSTS