2020.04.03
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

無数の人のスタイルや能力に依存した存在の奇跡

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第12回
訳・文:野村正次郎

自分には相応しくない仕事なら

他人に頼まれてもすべきではない

泳げもしない者は頼まれたとはいえ

一体どうして水に飛び込むだろうか

12

泳げない人に激しい水流に飛び込んでください、という人はいない。彼はどんな人が頼もうと自殺行為なのできっぱりと断る。これと同様に何かの仕事をはじめる前に、それが自分の手に負えるのかどうか、ということを考えなければならない。もしも手に負えない仕事ならば、いくら他人から頼まれてもすべきでない。本偈が述べているのはこういうことである。実に当たり前のことのようだが、実際には世の中の様々な問題は、こんな些細なことから起こることが多い。

そもそもどんな小さな仕事でも、何かを完成させる、ということは実は想像以上に困難なことである。最初は簡単そうに見えて自分にもできるような気がする。依頼主である相手もそこまで大変そうではないので、この人ならできるだろう、そう思って仕事を依頼してくる。それなりの報酬を準備してくれる場合もあるし、そうでもない場合もあるが、何かの仕事を受注するときには、双方これは必ず完成して納品できるだろう、そう期待している訳である。

しかし実際にその仕事がはじまってみると、途中で様々な要因で完成出来なかったり、期待とは違うものになったりする。仕事の依頼主は、そもそも仕上がりを求めているのであって、その途中のことなどあまり気にはしていない。しかるに依頼主の方が見込みが甘い場合が多い傾向にあるが、基本的には対価を支払う立場なので、仕上がりが気に入らない場合には、出来上がった後になって支払いません、と言い出すことも山のようにある。逆に制作者の方は、途中で依頼主は何を望んで、ここはどうしたらいいか、できるだけ気に入ってもらえうようにいろいろと細かいことを気にする。しかし依頼主にはそういうことを聞かれるのをひどく面倒くさがる人が多い。お金を出して頼んでるのだから、頭を振り絞って適当にいいものを作れよ、と思いつつ「いま忙しいので、いい感じにしておいて」というわけである。こういうトラブルを避けるために事前に打ち合わせをしたり、要件定義というものをしたりするのであるが「そんな細かいこと言われても専門家じゃないから分からないのよ。とりあえず予算はこれでいついつまでにやってね」という実にアバウトなことを言ってくる依頼者がほとんどなのである。

ものを作るということは実はとても大変なことである。そしてその前に、そのプロジェクトが自分の手に負えるのか、負えないのか、これを考えることも極めて難しいことである。つまるところ自分の手に負えるというのは、能力だけではなく自分の性分やスタイルを維持しながら、できるかどうかという非常に主観的な問題である。そしてそれが実際に相手に伝わったり、満足されることによってはじめてものが成立していく。私たちの身の回りのほとんどすべてのものが、この繰り返しによって出来上がっているものである。よくよく考えるとそれは奇跡的なものであるといえる。仏教はすべては依存して出来ている、縁起している、と説いている。これは我々に具体的に知覚可能な現象であると言われる。

では具体的には縁起しているというのはどんなことであろうか。あるアメリカの作家ジェイコブズは自分が朝飲む一杯のコーヒーに携わったすべての人に、直接お礼を言う旅にでた。千回以上「ありがとう」と言い終えて、その探求に伴い世界中を旅したことを振り返って語っている動画がある。一杯のコーヒーであっても、非常に大きな人が自分がこれはできる、と思った奇跡的な仕事の積み重ねの産物である、というのをこの動画を見るとよくわかるだろう。


RELATED POSTS