2016.09.04

ペティーとペティー・ゲゲン

PetriGegen

ゴマン学堂のペティーゲゲン

セラ、デプン、ガンデンというゲルク派総本山では、それぞれに「ペティー・ゲゲン」と言われる教授職の人たちがいる。彼らは「ペチャ」(仏典や論書)を「ティー」(導く・指導する)き、伝統的な仏教の解釈やテキストの様々な問題点、解釈の矛盾点、ほかのテキストとの相違点などを弟子たちに問題提起をするという形で教えていく。

弟子たちにとってはこのペティーは仏教理解や信仰のベースとなるものであり、また同時に毎日の問答法苑での問答のポイントを教えてもらう場であり、極めて重要なものである。一般的にはゲルク派の総本山では、毎日このペティーの授業に出て、テキストを暗記し、問答をし、一年に一度ある試験をパスするためだけの生活を僧侶たちはしている。

仏教を学ぶこととはブッダの言葉を学ぶことであり、ブッダの言葉を学ぶこととは、その言葉の深い意味や解釈を伝統に則って学ぶことなのである。

日本に来てくださったケンスル・リンポチェにしろ、ゲン・ロサンにしろ、ゲン・ゲレクにしろこのペティーゲゲンのお一人である。ゴマン学堂にはゲシェーと呼ばれる博士号をもっている人は何百人もいるが、ペティー・ゲゲンはたったのこれだけしかいない。

そして同時にこの写真にあるペティーゲゲンのうち、僧院の管長になった方もおられるし、同時にダライ・ラマ法王の法王庁で教えておられる方もおられるので、実際にペティー・ゲゲンとして毎日ゴマン学堂で僧侶たちにチベット仏教の最高峰の知識を伝えている人は極めて少ない。彼らはチベット仏教の核をになっているのであり、同時にチベット仏教文化の未来を担っている貴重な人々であるからこそ、なかなか日本などを含め外国に出て活躍することはない。何故ならば、本山でしっかりと次世代の人間を育てることこそが彼らの務めであるからである。

ペティーのクラスが始まる前にゲンロサンの部屋の外で待っている僧侶たち。1分前くらいに全員揃ってから教室に入る。

ペティーのクラスが始まる前にゲンロサンの部屋の外で待っている僧侶たち。1分前くらいに全員揃ってから教室に入る。

ペティーゲゲンというのは、何か試験があって任命されるものではないし、役職のようなものではない。ペティーゲゲンになるのは、その人が多くの人の前で問答をしたときに素晴らしい解釈をしているのを弟子たちが聞いて、この先生に仏典を習いたいと思って弟子たちが自然にあつまったことからいつのまにか先生になっているのである。

ゲンロサンの場合には、何百人もの学生がいたし、朝の7時から夜の8時くらいまでほぼぶっ通しで多くの弟子たちに仏典を解説されていた。ゲンロサンがおられなくなったいまは、彼らは他の先生に続きを教えてもらっているのであろうが、ゲンロサンに教えてもらった深い解釈はいまだに彼らの心のなかに法灯として生き続けているのだろう。

ゲンロサンは年に二回日本で教えを説いてくださっていたが、私たちはそれを失い久しい。ケンスル・リンポチェ、ゲン・ロサンという二人の巨星を失ってしまったが、私たち日本人がそこでデプン・ゴマン学堂の教えのよき伝統を学ぶことをやめてしまったら、彼らの法恩に申し訳ないと思えてならない。

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「仏教とはことばと思想であり、それを守ることは祈ることではなく、それを学び、語り伝えることである」といわれるヴァスバンドゥの言葉は、繰り返しダライ・ラマ法王が引用されるものであるが、私たちは仏教を学び、実践しつづけること、継続することこそがもっとも重要なのである。

先日ダライ・ラマ法王のラダック訪問に同行していたケンリンポチェ・ロサン・ゲルツェン師は、日本別院の次の指導者をすぐに決めるのは人材不足もあるので非常に困難であるが、これからはゴマン学堂のペティー・ゲゲンたちが、年に三回ほど本山の講義がおやすみの期間にゴマン学堂の支部に短期間派遣し、みなさんは仏典の学習会を開催したらいいとお話しをいただいた。

ゴマン学堂のペティーゲゲンたちが日本に来られるのは来年の大祈願祭の時からはじまるが、私たち日本人もその短い期間で集中的に学ぶことができるよう、事前に予習会などを開催するなどして、貴重な機会を大切にしなくてはならない。

昨今中国政府の圧政や取り締まりが強いせいか、チベットの総本山でも人材不足である。そんな世界情勢のなか、きちんと仏教を学ぼうと思うのならば、私たち日本人の方にももっと熱意と努力が必要なのであろう。来年の大祈願祭にはペティーゲゲンが来られるし、その講義が終わるころケンリンポチェ・ロサン・ゲルツェン管長自ら日本に来られることが決定した。

ケンスル・リンポチェやゲンロサンがいまもし居られたら、「それはいいですね。みなさんしっかり勉強してくださいね」とあのやさしい笑顔で語ってくれるだろう。そしてダライ・ラマ法王も「仏教はひとりの人やひとつの民族が一世代でやるようなものではありません。何世代にも渡り世代を超え、民族を超え、学ぶべきものですし、私たちは21世紀の知性のある人類にふさわしい仏教徒となるべきです」と常々おっしゃっている。

素晴らしい仏典は常に開かれてあるし、またそれを伝える先生たちも日本に来てくれる。あとはそれを学ぶ私たち次第ということなのであろう。


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