勅書:政権委譲に関して


Created: 2011-03-12 Last updated: 2016-09-23 Author:野村 正次郎

ダライ・ラマ法王の引退声明に関する重要書類のひとつである、先月チベット人代表者会議に提出されたダライ・ラマ法王の勅書の翻訳を作成いたしましたので公開いたします。

第14期チベット代表者会議議員 各位

既にご存知のとおり、紀元前二世紀のチベット初代王ニャティツェンポから9世紀の支配者ティレルパチェンまでの千年間、42代にわたりチベットの王朝は、“三つのチョルカ”というチベット全体の支配者でした。「チベット王国」は東方の中央アジアにおいて軍事的に支配力のある大国であり、インド、モンゴル、チベットと三国が並び称されるような大国のひとつでした。高度に発達したチベットの口語、文語、そして文法をはじめとして、その宗教と文化、社会の発達はさまざまな点でインドの流れを汲むものでした。9世紀にチベットの王朝が分裂した後はその統率力が失われ、その後、各地域で個々に統治されたものの、チベット全土に及ぶ政治が執行されることはありませんでした。だからこそ、13世紀にチンギスカン率いるモンゴルの軍事力により、中国だけではなくチベットも全地域が完全にその配下へと入ることとなったのです。1260年、ドゴン・チョーゲル・パクパが三つのチョルカの全権を委任されて一時的に権力を回復しましたが、継続的に国体を維持できたわけではありませんでした。その後380年の間、パクモドゥパ政権、リンプンパ政権、ツァンパ政権などと何度も政権交替を繰り返し、各王が拠点の近隣地域以外を支配する以外、チベット全体で統一した法律、権力、命令系統が及ぶことはなく、内紛は絶えずチベット全体への政治権力は大きく弱体化しました。

1642年、ダライ・ラマ五世法王はチベット総督ガンデンポタンを創設し、その後、歴代のダライ・ラマがチベットの政治と宗教の両方の指導者をなす制度が確立しました。これはチベットの十三地域に安定をもたらし、宗派の優劣なく仏説が興隆して、チベット人は自由に幸福をする生活を満喫できたのです。その後、歴代ダライ・ラマはそれぞれが直面する政治責任を負うこととなりましたが、特に19世紀、20世紀初頭までは政治面での総合的な施策および、国際社会との外交が思い通りになりませんでした。そしてダライ・ラマ13世が政権を受け継いだその直後から、悪い条件が重なり、モンゴル、中国、インドへと亡命せざるを得ない状況となりましたが、再び帰国できた際に、チベットの政権へと戻られることができました。それに伴って、見聞なされた国際社会の情勢に相応しい、チベット人の生活や政治制度の近代化をすすめ、また伝統的因習に対しては改革をなされるといった大いなる成果も残されたのです。しかしながら、当初ご計画されたことのすべてを実現することができなかった様子は『水申歳勅語』からも想像できますし、他の代と同様、摂政や役人が様々な誤った政策を行うなどといったことがあったことも事実です。しかしながら、チベット全体への統治力が弱いということを除外すれば、420年間、確固たる施政を行うことが可能であったといえます。

私がダライ・ラマ法王の再臨者に認定された幼少の頃から、将来チベットの政治制度には近代化が重要課題だと思ってきました。16歳の頃、当時まだ国際社会のことや自国の伝統や慣習のすべてを経験していたわけではありませんが、前倒しして政治的責務に就かざるを得なくなったのです。当時すでに緊急課題があったり、次々と様々な困難な状態もありましたが、チベットの政治制度を、過去のまま放置してはならず、現代に相応しいものへと改革しなくてはという強い意志を持つようになりましたので、改革委員会を新設するなど、いくつかの対策を実施したのですが、内外の諸々の事情から理想にのとった改革を行うことはできなかったのです。

インドに亡命した直後の1959年4月から民主制の導入こそが最大課題と考えて、内閣官房に部署を新設し、民衆が投票して選出した議員から成る議会などを順をおって設立する準備をはじめました。

概してどのような国家でも国民全員が協力し責任を担い、その時々の情勢や民意に対応した政治を行わずに、世襲制でひとりの人間の意向を伺うだけで、個々の民衆には責任のない状態のままにしたのでは、国家や民族というものは堅固な状態を維持することはできません。また国家や地域の発展が滞る状態を見れば歴然ですが、特定のひとりの人間がすべての権力をもつという制度は時代遅れ以外の何ものでもありません。

民主主義は現代の政治制度のなかで開かれた最良の制度です。単に真似をして形だけ体裁を整えるのではなく、600万人のチベット人の長期的・短期的な幸福の追求を目的として信念をもって民主制度への改革を様々な面から実行しはじめたのです。

1960年、チベット人代表者会議を設立し、将来におけるチベットの憲法草案を発表しました。1990年には憲章作成委員会を設立し、続いて1991年にこれは議会の満場一致で決議され、亡命社会で長期間施行できる、亡命チベット人憲章として、第11次議会にて採決されました。このように法制度として名文化し、議会を正式な立法権のある議会へと進化させることができることをはじめとして、亡命社会の現状に即したそれなりの成果をあげることができたのです。2001年には、チベットの政治的指導者であるべき〝首席大臣〟(カロン・ティパ)を、民衆のなかから直接選出しなければならないというアドバイスをしました。それが実行された後には、私自身としては、政権運営のための日常業務にあたる必要がなくなりましたので、半分引退した状態となり、その代わりに世界全体に貢献するような様々な活動に割く時間をより多くとれるという機会を得たのです。

亡命チベット人憲章の草案では、チベット人の政治の本質たる宗派間の優劣を付けることなく、各地域住民の国政についての意見を反映させ、最終的には名義上の政治的指導者の承諾を必要としない、選挙という方法でもたらされることを長期的に目指そうとしたのです。

一般的に民主主義の本質は、行政に関する如何なるプロセスであれ、最終的に特定の一個人に依存しないで、民衆のために、民衆によって選出された民衆の指導者が、その都度民衆についてのすべての責任負わなければならない、ということにあります。ですから私たちがいま目指してきた民主制をより完全なものとするためには、ダライ・ラマが政治的な責任を負うべきではないのであって、民衆によって選出された指導者が、その都度すべての政権運営と行政権に責任を負う必要があるのです。そしてこの状態を実現しなければならない時にいま現在至っているといえます。

こうした考えを私は最近突然思いついたわけではなく、私たちが民主化のプロセスを歩みはじめた時から考えつづけていました。ですがそれをいままで実行しなかったのは、内外の諸情勢や、特には民主制度そのものについての議員の意識と経験などが充分ではなかったため、体制としての移行の時機をこれまで待っていたからなのです。すべてのチベット人がこの約四百年間、〝歴代ダライ・ラマが直接的もしくは間接的な、チベットの政治の指導者である〟という伝統制度に親しんできたのです。特に本土のチベット人にとっては〝ダライ・ラマのいないチベットの政治〟というものを想像するのは非常に困難です。そういえるほど古い因習に親しんできたのです。だからこそこれまでは急速な民主化を行うのは難しいと思い、これまでの50年間、チベット人全体に民主政治への理解の促進と責任意識の向上を促すためのさまざまな取り組みを行うことにつとめてきたのです。

たとえば1969年3月の声明では次のように述べました。「チベットの行政権をチベット人が取り戻す機会がやってくれば、その時チベットの行政機構をどのようなものにするのか、はチベット人たち自身が決断しなければならない。それ故、ダライ・ラマが執政するという行政制度が、その時に採用されるかどうかは今現在のところ未決事項なのである。未来のチベットの決断は、チベットの民衆自身が為すべきことなのであり、特に現代社会の教育を有している若い世代の人々の考え方や能力がその時にきっと発揮されるだろう。」また1988年3月の声明でも「私は、これは過去に何度も繰り返し経験したことだが、ダライ・ラマ制度というこれが継続すべきものかどうかということは、チベット人の民衆が決めなければならないことである」と述べたのです。

1980年代からは、内閣、議員、行政会議などに対して「今後はダライ・ラマはいないのと同じものと考えてほしい、行政府として民衆に対するすべての責任を担わなければならないのです」そう何度も繰り返し述べてきたのです。同様に、第13次議長並びに最高裁判事に対しても、議会で議決されるいくつかの法案について、私の署名を要するといった、政治と行政の名義上の指導者に伺いをたてなければならないような状態はなくすべきであると語ってきました。しかし、その時の状況やさまざまな理由を考慮して、一時的にそのことを留保して引き延ばして欲しいと何度も要請されましたので、この体制が現在まで存続してきたのです。

昨年8月31日に第1回チベット国民全体総会の開会時にも、相変わらずこの問題を詳しく説明しなくてはなりませんでした。しかしこういった重要課題をもはや先延ばしするわけにはいかないと思います。このたびの議会招集の機会に、憲章をはじめ諸法令を改正しなければなりません。そしてそれらを改正することで、ダライ・ラマに名義上でも承認を経なければならないという行政プロセスのそのすべてを不要なものとする必要があるわけです。

またこの機会に重ねて述べておきたいことがあります。いまここにお集りの亡命チベット人のみなさまだけでなく、内外のチベット人、そして多くの人が、純粋な気持ちで私にこれまでと同じように政治的権限を継続してほしいと希望し要請してくださっています。それにも関わらず私が自ら政治権限を委譲したいと考えているのは、〝政治的な責任を負いたくなった〟とか、〝情熱を失ってしまった〟とか、〝チベット問題を解決するための闘争をあきらめた〟というものでは決してないことをご理解いただきたいと思います。私がチベット人の長期的、短期的な利益になることのみを考え、そしてその実現を目指していることには変わりはありません。チベット人の正義と真実の闘争が継続可能であるということは重要ですし、今後ももし数十年間もこの問題に引き続き取組まなければならないとすれば、いつの日かは、私が指導的役割を果たせなくなる時が必ず来てしまうことは確実です。そしてその懸念は既にみなさんが思われている通りだと思います。

だからこそ、いま私が健康なこの状態にある時にこそ、亡命チベット人の行政権をダライ・ラマに依存しない自主運営ができる状態へと変化させ、その状態に慣れておく必要があるわけです。今後の対策としてその状態をいまのうちから実現していなければならないのです。もしも自主運営が可能となっていれば、将来的にたとえ困難に直面しても、私がその解決のために手助けすることもできるかもしれません。ですがもしいまの状態のままにしてしまうのならば、いつかある日突然私という指導者が不在になってしまった時に、何も為す術がなくなってしまうという状況になる可能性があるのです。こうした危惧を回避するためにも、いま現代から完全なる自主運営の状態を必ず実現しておかなくてはなりませんし、これはすべてのチベット人にとって極めて重要な課題なのです。

私もチベット人のひとりです。チベット民族と歴代のダライ・ラマの意志に関わっている者として、チベットの民衆が信頼をおいてくれているその限り、私もまたチベットの仏教全体および政治一般を見放すことなどありえないのです。私たちチベットの人の根本要求を実現するために対策をするというこの仕事、そして宗教面での仕事のすべては継続的に必ず努めなければならないことなのです。ですから、みなさんが心配なさる必要は決してないのです。

亡命チベット人憲章第31条に摂政会議の条項があります。これは過去の伝統的な施政制度との折衷条項に過ぎません。ですからダライ・ラマがチベットの政治指導者としていない場合を前提とした条項へと改正しなくてはならないでしょう。今回の憲章改正にあたり、憲章の序文も改正の必要があり、政治と行政の両方の指導的任務を、民主的に選出された者が任期中は務めるという新らたな条項を追加し、憲章を「国民主権国家」としての根本に相応しいものとしないならないのです。同時に関連条文や法令も改正する必要があり、そのための委員会を別途設立するか、それに必要なプロセスを今議会の会期中に決議し施行する必要があります。そのようにすることで、未来のチベット憲章草案および政治に関する助言など、私が発布した政治文書のいくつかが自動的に無効になるでしょうし「ガンデンポタン」という名称をもまた、これに応じて変更する必要があります。これらのことをどうぞ留意していただきたくお願いすると同時に、このたびの議会の盛会をお祈り申し上げます。

ダライ・ラマ14世説法者テンジン・ギャツォ

2011年3月11日記

翻訳:野村正次郎