作成日: 2016-09-18 最終更新日: 2016-09-24 作成:野村 正次郎

【解深密経における三無自性に関する略示】

C2 その矛盾を排斥する解答

 C2には二つ、D1どの無自性形式を意図して無自性と説かれているのかの解説・D2何を密意として不生などをおしゃっているかの解説。

D1 どの無自性形式を意図して無自性と説かれたのかの解説

 D1には三つ。すなわち、E1略示・E2詳説・E3それらの喩例の提示

E1 略 示

『解深密経』では

我依三種無自性性密意、説言一切諸法皆無自性。所謂相無自性性、生無自性性、勝義無自性性。

パラマールタサムドガダよ、わたしは、諸法の(1)Cf. Drang nges chen mo, 20b5-22a4; mchan, maでは、ここで単に「諸法の三無自性」という表現がされており、「遍計所執」(定義基体)は「特質無自性」であるというように何のことを指しているのか直接的には示されていないことを問題としている。もしもこの箇所で三性が三無自性の定義基体であることが示されているとするならば、『解深密経』の次の箇所で「相無自性とは何か」「生起無自性とは何か」「勝義無自性とは何か」という問い掛ける必要性がなくなってしまうとしている。ただし次のヴァスバンドゥの註釈ではその定義基体がきちんと示されているとする。三種の無自性性、すなわち「相無自性性」・「生無自性性」・「勝義無自性性」のことを意図し「一切法無自性」であると示したのだ。(DK 26a6-26b1)

と三無自性を三つともを意図し「無自性」と説かれたとしている。また〔アサンガの〕『摂決択分』でも次のように説かれる。

問、世尊依何密意説一切法皆無自性。答、由依彼彼所化勢力故説三種無自性性。(大正30・702中)
世尊は何を意図して諸法無自性と説かれたのだろうか、といえば、所化の能力によってそれぞれについて三種の無自性性が意図されて説かれたのである。(DT zi 16b5-6 )

また〔ヴァスバンドゥの〕『三十頌』でも次のように説かれている。

即依此三性、立彼三無性。故仏密意説、一切法無性。(大正三一・六一上)
三種類の自性が三種の無自性であることが意図されて、
一切諸法は無自性である、と説かれたのである。(K.23)(DT shi 2b6)

したがって、たとえば〔ジョナン派のように〕「般若経などの諸経典で一切法無自性と説かれたのは、世俗の一切法が意図されているのであって、勝義が意図されているのではない」と解説する(2)ジョナン派の一般的な学説。ジョナン派は般若経などで説かれているの「それ自身によって空」という自空説であるので、世俗であり、「他のものによって空」という『解深密経』などの十経典は勝義を説くものであるとする。そしてアサンガとヴァスバンドゥも大中観を説く思想家であるとする。これについては、『山法了義大海』Ri chos Nges don rgya mtsho『善説水晶鏡』ジョナン派の章、『ザムタンロタク著作集』『ジョナン派仏教史宝鏡』などで何度も言われていることである。谷口1993、袴谷1999b、山口1981、Ruegg 1963,1969,Stearns 1995など論文も多数あるので、そちらを参照されたい。のは、『解深密経』やアサンガ兄弟の〔上記の〕典籍(3)チベット仏教において「弥勒関係二十法」(byams pa dang ‘brel ba’i chos nyi shu)と呼ばれるものがある。「弥勒五部」、すなわち『現観荘厳論』『大乗荘厳経論』『究竟一乗宝性論』『法法性分別論』『中辺分別論』の五部と、アサンガの「地五部と二要約」、すなわち「地五部」、『本地分』『摂決択分』『摂事分』『摂異門分』『摂釈分』と、「二要約」『阿毘達磨集論』『摂大乗論』、ヴァスバンドゥの著作は「プラカラナ八部」、すなわち弥勒の註釈である『大乗荘厳経論註』『法法性分別論註』『中辺分別論註』『釈軌論』『成業論』『五蘊論』『唯識二十論』『唯識三十頌』である。このうちツォンカパは『現観荘厳論』『宝性論』を中観派の作品とし、アサンガも『宝性論』の註釈では中観派の立場を取っているので、この三人のうちのヴァスバンドゥのみが唯識派であると『密意解明』(ショル版133b4-133b6)で述べているが、ここではすべて唯識派の立場での解釈の流れを示しているものである。「弥勒関係二十法」については袴谷一九八二、一九八六、『梵仏研』に詳しい。。と対立してしまうだけでなく、聖者父子〔ナーガールジュナ・アールヤデーヴァ〕たちの学説とも逆のものとなってしまう。

 こうした「何を意図し無自性が説かれたのか」という問い掛けは、「何のことを考えて無自性であると説かれたのか」ということと「無自性形式は一体どのようであるのか」という(二つのこと)ことを問い掛けているのであり、それに対する解答も二つ順に説かれているが、まず最初のものを解説しておこう(4)Thurman1984では、ここからE2が始まるとしている。

 〔般若経などで〕「色」より「一切種智」に至るまでの〔一切の〕諸法の特殊項目のすべてに対して「それ自体なるもの、自性が無い」と説かれたものは三無自性に纏められ、それぞれの無自性の形式を説明するのならばより分かりやすいということを意図して、〔まず〕無自性を三つに纏めるのである。勝義と世俗のこの一切の法が三つ〔の無自性〕に纏められるということである。このように〔すべての無自性を釈尊が三無自性に〕なさられた必要性は、仏母経典などでは、五蘊・十八界・十二処の諸法それぞれはが「実在しないもの」(dngos po med pa)であり、「本性が無いもの」(rang bzhin med pa)であり、「自性が無いもの」(ngo bo nyid med pa)であると説かれているのであり
(5)本翻訳では「རང་བཞིན་」と「ngoཉོ་བོ་ཉིད་ངོ་བོ་ཉིད་d」という単語に対して、「本性空性」(rang bzhin gyis stong pa)「自性空性」(ngo bo nyid kyis stong pa)の玄奘の訳語を尊重し、便宜上「rang bzhin, prak¥d{r}ti」を「本性」、「ngo bo nyid, svabhāva」を「自性」と訳すことした。ただしこれらはチベット訳大蔵経においても頻繁に入れ替わるものであり、ツォンカパの用例も必ずしもその区別をしている訳ではない。またこの箇所で分かるように、ツォンカパは「無自性性」と「無自性」とを区別しない。ただしここでは混乱を避けるために字義通りにしておいた。「無自性性」とあるテキストを「無自性」と引用する場合も多くあり、三性説の方も「遍計所執」「遍計所執性」「遍計所執の特質」「遍計所執自性」などすべてそれぞれに区別されていない。このような解釈はサンスクリット原典では無自性性および三性をすべて所有複合語として捉えればこの解釈は可能であり、そのような意図でツォンカパは述べている。長尾一九七八でも三性とは述語であることを述べている。、特に空性・法界・真如などの勝義の一切の同義語をのべて、それらに対して「自性は無い」と説かれていることにあるのである。したがってそれらの諸経典により諸法無自性と説かれる〔第二転法輪の〕法には、勝義は無い」というようなことを心ある人の一体誰が言うというのだろうか(6)Cf. Drang nges chen mo,22b4-5: 般若波羅蜜多経で一切法無自性と説かれた密意基体は有る。特質無自性・生起無自性・勝義無自性という三つのものを意図して、一切諸法無自性と説かれているからである。

注釈   [ + ]

1. Cf. Drang nges chen mo, 20b5-22a4; mchan, maでは、ここで単に「諸法の三無自性」という表現がされており、「遍計所執」(定義基体)は「特質無自性」であるというように何のことを指しているのか直接的には示されていないことを問題としている。もしもこの箇所で三性が三無自性の定義基体であることが示されているとするならば、『解深密経』の次の箇所で「相無自性とは何か」「生起無自性とは何か」「勝義無自性とは何か」という問い掛ける必要性がなくなってしまうとしている。ただし次のヴァスバンドゥの註釈ではその定義基体がきちんと示されているとする。
2. ジョナン派の一般的な学説。ジョナン派は般若経などで説かれているの「それ自身によって空」という自空説であるので、世俗であり、「他のものによって空」という『解深密経』などの十経典は勝義を説くものであるとする。そしてアサンガとヴァスバンドゥも大中観を説く思想家であるとする。これについては、『山法了義大海』Ri chos Nges don rgya mtsho『善説水晶鏡』ジョナン派の章、『ザムタンロタク著作集』『ジョナン派仏教史宝鏡』などで何度も言われていることである。谷口1993、袴谷1999b、山口1981、Ruegg 1963,1969,Stearns 1995など論文も多数あるので、そちらを参照されたい。
3. チベット仏教において「弥勒関係二十法」(byams pa dang ‘brel ba’i chos nyi shu)と呼ばれるものがある。「弥勒五部」、すなわち『現観荘厳論』『大乗荘厳経論』『究竟一乗宝性論』『法法性分別論』『中辺分別論』の五部と、アサンガの「地五部と二要約」、すなわち「地五部」、『本地分』『摂決択分』『摂事分』『摂異門分』『摂釈分』と、「二要約」『阿毘達磨集論』『摂大乗論』、ヴァスバンドゥの著作は「プラカラナ八部」、すなわち弥勒の註釈である『大乗荘厳経論註』『法法性分別論註』『中辺分別論註』『釈軌論』『成業論』『五蘊論』『唯識二十論』『唯識三十頌』である。このうちツォンカパは『現観荘厳論』『宝性論』を中観派の作品とし、アサンガも『宝性論』の註釈では中観派の立場を取っているので、この三人のうちのヴァスバンドゥのみが唯識派であると『密意解明』(ショル版133b4-133b6)で述べているが、ここではすべて唯識派の立場での解釈の流れを示しているものである。「弥勒関係二十法」については袴谷一九八二、一九八六、『梵仏研』に詳しい。。
4. Thurman1984では、ここからE2が始まるとしている。
5. 本翻訳では「རང་བཞིན་」と「ngoཉོ་བོ་ཉིད་ངོ་བོ་ཉིད་d」という単語に対して、「本性空性」(rang bzhin gyis stong pa)「自性空性」(ngo bo nyid kyis stong pa)の玄奘の訳語を尊重し、便宜上「rang bzhin, prak¥d{r}ti」を「本性」、「ngo bo nyid, svabhāva」を「自性」と訳すことした。ただしこれらはチベット訳大蔵経においても頻繁に入れ替わるものであり、ツォンカパの用例も必ずしもその区別をしている訳ではない。またこの箇所で分かるように、ツォンカパは「無自性性」と「無自性」とを区別しない。ただしここでは混乱を避けるために字義通りにしておいた。「無自性性」とあるテキストを「無自性」と引用する場合も多くあり、三性説の方も「遍計所執」「遍計所執性」「遍計所執の特質」「遍計所執自性」などすべてそれぞれに区別されていない。このような解釈はサンスクリット原典では無自性性および三性をすべて所有複合語として捉えればこの解釈は可能であり、そのような意図でツォンカパは述べている。長尾一九七八でも三性とは述語であることを述べている。
6. Cf. Drang nges chen mo,22b4-5: 般若波羅蜜多経で一切法無自性と説かれた密意基体は有る。特質無自性・生起無自性・勝義無自性という三つのものを意図して、一切諸法無自性と説かれているからである。