作成日: 2016-09-18 最終更新日: 2016-09-19 作成:事務局

【根本中論頌・抜粋和訳】

帰敬偈

不滅にして不生、不断にして不常、
不一義にして不異義、不来にして不去、
およそ戯論が寂滅し、吉祥なる縁起、
それを説いた仏陀、かの最高の説法者に私は帰命する。

第一章 縁に関する考察

諸の法は、自ら生じたものも、他から生じたものも、両者から生じたものも、
非因から生じたものも、如何なるものも、何処にも、決して存在しない。

第二章 去来に関する考察

既に去った者は去られない。未だ去っていない者も去られない。
既に去った者と未だ去ったものとを離れて現に去るものも去られない。

第十八章 我に関する考察

もし諸蘊が我であるのならば、生滅あるものとなるだろう。
もし諸蘊とは異なるのなら、蘊の特質は無であることになる。

我が有るわけではないのに、我所が一体どうして有るだろうか。
我と我所とが寂滅するが故に、我執と我所執も滅するのである。

我執と我所執を欠いているもの、それもまた存在しない。
我執と我所収は無いと見る者、彼はまた何も見ていない。

内部でも外部でも、我と我所執が尽きているならば、
取は滅するだろう。それが尽きることで生も尽きることとなる。

業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別による。
それらは戯論より派生するが、空性によりそれは滅することとなる。

我であるとも増益されるし、無我であるとも説かれている。
諸仏たちは我と無我とのいづれもが無いと説かれている。

語られるべきものは消滅している。心の活動領域が退けられているからである。
不生不滅であることが、法性なのであり、涅槃に等しいものであるからである。

すべてのものは正しく、また、正しくなく、正しく正しくなく、
そして、正しくなく正しくなくない。これが諸仏の教えである。

他によって知られず、寂滅しており、戯論によって戯論されず、
無分別であり、別異なる対象ではないもの、それが実義の特質である。

何らかのものを縁として起こっているもの、それはまずそれ自身ではない。
更にはそれとは異なるものでもないが故に、それ故に不断・不常なのである。

同一の対象でもなく、別異なる対象でもなく、不断にして不滅なるもの、
これが世間の救い主である仏たちの教えの甘露である。

正等覚が未だ出現しておらず、声聞たちが既に滅している時でさえ、
独覚たちは智慧を師によらずとも生じるのである。

第二十四章 聖諦に関する考察

もしもこのすべてが空であるならば、生滅は無いだろう。
しかしあなたには、四聖諦が成立しないことになってしまうのである。

遍知・永断・修習・現証というこれらのものは、
四聖諦が無いが故に成立しないことになるだろう。

それらが有り得ないことにより、四つの聖者の果位も有り得ないこととなる。
果位が有り得ないのならば、果位住者も、向位も有り得ないこととなるだろう。

八輩の者たちが有り得ないことにより、僧伽も有り得ないこととなるだろう。
四聖諦が無いのならば、正法もまた有り得ないことになってしまうだろう。

もしも僧伽も法も無いのならば、一体どうして仏が有り得るだろうか。
このように空を語るのならば、三つの宝を侵害することとなるだろう。

果が有ること、法ではないもの、法性であるもの、
これらすべての世間の言説を損害することになるのである。

これらに答えよう。汝は空であること、空の必然性、その意味を理解していない。
それが故にあなたはこのように侵害しているのである。

諸仏たちの説法は、二つの真実に基づいている。
世間世俗の真実と、勝義の真実との二つである。

誰であれこの二諦の区別を知らない者たち、
彼らは仏の教えの甚深の実義を理解しない。

言説に基づくことなく、勝義を説くことは不可能である。
勝義を理解することなく、涅槃を得ること不可能である。

空性を見誤うならば、智慧少なき者たちが破滅する。
それは誤って捉えた蛇や、未熟な明咒と同様である。

このために、牟尼は説法を躊躇なされたのである。
この法が鈍根の者には理解され難いと思われたからである。

さらに汝が空性を如何に誹謗しようとしても、
その過失は我々には起こらない。誹謗は空にして適合しないからである。

何であれ、空性が成り立つ場合、そこにおいて一切が成り立つのである。
何であれ、空性が成り立たない場合、そこにおいては一切は成り立たない。

汝は汝自身にある過失を我々に転嫁しようとしているのである。
それは馬に乗っていながら馬のことを忘れているのに等しい。

もし汝がすべての現象が自性によって有ると考えるのなら、
すべてのものは因縁が無いものであると見ているのであろう。

結果、原因、行為者、行為、行為対象、
生起・消滅・果報というこれらを損害しようとしているのである。

何であれ縁起しているもの、それを我々は空であると説く。
それは依存して措定されたものであり、これだけが中道なのである。

縁起していない法は如何なるものも存在しないが故に、
それ故に、空ではない法は、如何なるものも存在しないのである。

もしもこれらすべてが空でないとすれば、生滅は無いだろう。
そうすれば汝にとっても四聖諦は無いこととなるであろう。

縁起していないのならば、どうして苦であることになるだろうか。
無常なるものは苦であると説かれているこれは自性として有るのではない。

自性によって有るのならば、一体何が集起するというのだろうか。
それゆえに空を破壊する者には、集も無いことになってしまう。

自性によって有る苦においては、その滅も有り得ないのである。
汝は自性に固執しているが故に、滅をも侵害しているのである。

自性によって有るのならば、道の修習もまた不可能であろう。
もしその道が修習されるとするのなら、自性によって有ることは有り得ない。

苦集滅が存在しないにも関わらず、一体如何なる道によって、
苦を滅し、その境地に達するというのであろうか。

自性によって遍知されることなくして、一体どのよに遍知するのだろうか。
自性とは堅固にして不動なるものとして謂われているのではなかったのか。

汝にとっては、永断・現証・修習そして四果すらも、
遍知と同様に存在しないものとなるであろう。

しかるに自性によって証得されることのない果は
一体どうして自性に固執する者によって証得されるものでありえようか。

果が成立していない限り、諸々の果位の者も向位の者も存在しない。
もしこれら八輩が存在しないのならば、僧伽もまた存在しないだろう。

しかるに、聖諦が存在しないことにより、正法も存在しないこととなる。
正法と僧伽が存在していないにも関わらず、仏がどうして存在するだろうか。

汝にとっては、菩提に拠らずとも仏が有るということになってしまう。
更に汝にとっては、仏に拠らずとも、菩提が有ることになってしまう。

しかるに、自性によって仏ではない者が、菩薩行を精進しても、
汝にとっては菩提を証得することなど有り得なくなってしまうだろう。

更には何人も法や非法を為すことなど無いことになるであろう。
不空であるのに何を為すのだろうか。自性が為されるのではないからである。

法や非法がないのならば、汝には果報も無いことにある。
汝にとっては、法や非法を因とする果は無いからである。

もしも汝に法や非法を因とする果報があるとするならば、
汝にとって法や非法より生じた果が、どうして空でないことになるのだろうか。

誰であれ、縁起と空とを侵害しようとする者は、
彼は、世間の言説を侵害しているのである。

空性を侵害するのならば、如何なる為すべきことも無いことになるだろう。
作用が開始されないことになり、何も為さなくとも行為者であることになる。

自性が有るならば、衆生は不生不滅にして、
さまざまな分位も欠き、永遠に存続することができることとなるだろう。

もしも空でないのならば、未得の者が得ることや、
苦しみに終止符をうち、一切の煩悩を断じることもあ有り得なくなるだろう。

縁起を見る者は、これを見るのである。
すなわち、苦と集と滅と道こそを。

第二十六章 十二支に関する考察

無明に覆われたものは、再生のため三種の行を為す。
それらの諸々の業により何らかの趣へと赴くのである。

識は行を縁として趣へと入ってくるのであり、
趣へと入った識に名色が胚胎する。

一方、名色が胚胎した時、六処が発生し、
六処に基づいて触が現れれるのである。

眼と色と憶念に基づいてまさに起こるのであり、
このように名色により識は発生するのである。

眼と色と識という三つのものが集まったもの、
それが触であり、この触より受が生起する。

受を縁とし愛は有る。何故ならば、受の対象を愛するからである。
愛が起こっている時には、四種の取が取著されるのである。

取が有る時に取著の主体たる有が生起する。
取がなければ解脱するだろうし、有はないからである。

その有はまた五種である。有から生が生起し、
老死、苦等と、悲しみをともにする愁いと、

憂鬱と煩悶といったこれらが、生より生起し、
かくの如く純然たる苦の集合体が生起するのである。

しかるに無知なる者は輪廻の根本である諸行を賢者たちは造作し、
無知なる者は行為者となるが、賢者は実義を見ているが故にそうではない。

無明が滅すれば、諸行が生じることはないのである。
しかし、無明の滅は智によって実義を修習することによっている。

ひとつひとつが滅することにより、ひとつずつ生じなくなる。
こうしてこの純粋なる苦蘊は正しく滅することとなるのである。

最終偈

大悲の心に促され、すべての邪見を断じるために、
正法を説かれた彼のお方、ゴータマに私は帰命する。