作成日: 2016-09-18 最終更新日: 2016-09-24 作成:野村 正次郎

了義未了義判別論・善説心髄

ナモー・グル・マンジュゴーシャーヤ

シャンブ メーガヴァーハナ ヒラニヤガルバ
アナガパティ ダーモーダラ(1)還元梵語はグンタンジャンペーヤンによる。シャンブは大自在天、メーガヴァーハナは帝釈天、ヒラニヤガルバは梵天、アナガパティは欲天、ダーモーダラはヴィシュヌ神のことを表している。たちよ
おまえたちは世間で大手を振り声を高らかにする
その吼え声を轟かして思い上がっている
しかしその御方を目前にするのならば
瞬時に太陽によって蛍を隠されるようになる
かくも美しく輝ける宝冠を持す者たちさえも
その御方の蓮華座には謹んで帰依するだろう
彼の御方 天中天 牟尼自在 私は礼拝せん

智慧の深さと慈悲の広大さは量り難い
菩提行の大波は起伏し揺らぎ続ける
善説の宝蔵となられる方 聖文殊師利よ
大海原の摂政よ 合掌礼拝申上げます

善逝の教説の二つの道程の車轍を
善開されることを以て、勝者の最勝教説を
三界に於いて陽光の如く顕彰なされた方、
ナーガールジュナ アサンガの御足に頂礼せん(2)ナーガールジュナは甚深行と中観派の開轍者(shin rta srol byed)であり、アサンガは唯識派の開轍者である。広大行の開轍者は弥勒である。この点については第一部および『波羅蜜多考究』第一章、11a6-125a3を参照。

大馬車の轍を善く辿られた方々、
百千閻浮の民の智眼を開眼なさられた方々よ
アールヤデーヴァ アシュバゴーシャ
ブッタパーリタ バーヴィヴェーカ チャンドラキールティ
ヴァスバンドゥ スティラマティ
ディグナーガ ダルマキールティ
これらの閻浮提の荘厳者たちとこの最勝者たち、
彼らは牟尼の教説を不断にする勝幡の守護者であり、
賢者智自在者でもある。謹んで礼拝せん

典籍の教説を多く聴聞された方々
正理の道に励まれ現証された方々
少なからぬ功徳の資糧のある多くの方々
彼らの努力でも理解されたことは無かった(3)『心房』『未完割注』でグンタンジャンペーヤンは「多く聴聞された方」とはゴクロツァーワ(rNgog lo tsha ba Blo ldan shes rab)、サパン(Sa skya paN dita Kun dga’ rgyal mtshan)、プトゥン(Bu ston rin chen grub)などであり、「正理の道に励まれた方々」とはチャパ(Phywa pa Cho kyi seng nge)とその「八大獅子(Seng chen brgyad)」と呼ばれる弟子たち、「少なからず功徳の資糧のある方」とはドルポパ(Dol po pa Shes rab rgyal mtshan)などであるとすると記している。彼らは見解の面では誤っていることがあったが、実践の面としては非常に勝れていたので匿名で書かれていると述べられている。トゥケンの『善説水晶鏡』ゲルク派の章にもこの説が載せられている。
そのような境地は尊師文殊師利の御陰で善く見えた。(4)ツォンカパが文殊から直接教えを聞いたこと、ガーワトン、オデグンゲルなどでの宗教経験を示している。これについては第一部を参照されたい。
いまここにそれを至極の慈をもて解説したい。
教示の実義を作証する考察をし比類のなき学説を欲する人々よ。
どうか敬虔にお聴き下さいますように。

『護国尊者所問経』(5)Rāśtrapāraparicchā, II k.310: śūnyatānutpādanaya avijānād eva jagad udbhramati. teṣām upāyanayuktiśatair avatārayasi api krapālutayā.では次のように説かれる。

法本空寂無有生、不能知悟随輪転。
垂慈広為諸衆生、方便随機宣妙法。(大正一二・一三上)
空であり、寂静であり、不生である次第を
(6)グンタンジャンペーヤンは『未完割注』(3b6-6a2)『心房』(14a5-16a3)において「空性・寂静・不生」、「空」とそれ自体が真実によっては空であるので「空性」であり、無始時以来不生であるので寂静であり、「無相」(兆候が無いこと)であり、未来においても勝義として生じることは無いので、不生であり、「無願」であると「三解脱門」(rnam thar sgo gsum)に置き換えて説明している。特に『未完割注』では、『倶舎論』『大乗荘厳経論』『現観荘厳論小註』『摂決択分』『中論』などを使用し、大乗小乗においてこれらが解脱に至るために重要なものであると説明している。「三解脱門」については『善説金鬘』『解説心髄荘厳』『波羅蜜多考究』などで繰り返し説明されている。
知らないことにより衆生は彷徨っているのです。
彼らに対し慈しみをお持ちなので多くの方便の次第と
さまざまな正理によってご指導なさっているのです。

諸法の真如は極めて難解であり、それを理解しなければ輪廻から解脱することは出来ない、と慈悲深き釈尊は御覧になられ、〔所化に応じて〕数多くの方便の理趣や数多くの正理の門を通じてそれの理解へとご指導なさられた。このことが説かれている。したがって探究者たちは「実義とは一体如何なるものなのか」を理解する方便に励む必要がある。

勝者の教説の了義・未了義(7)「教説の了義・未了義(gsung rab kyi drang nges)」とは、教説の中から未了義の教説と了義の教説がそれぞれ何であるのかを確認することを指しているので、表現主体(brjod byed)である文節の了義・未了義である……。『心房』(21a6)が〔大馬車たちにより〕判別されたもの(経典)に依存しているのであり、その二つの判別もまた、単に「これは未了義である。これは了義である」と説かれている聖言だけによっては不可能なのである。何故ならば、もしそうである(聖言だけで可能である)とすれば、大馬車たちが了義・未了義を判別した密意の註釈(論書)を著述なされたことが無意味になってしまうだろうし、ひとつの教説のなかにも了義・未了義の異なった設定の仕方が説かれているものも多いからである。また単に聖言に「これがこちらである」と説かれるだけで、その通りであるとすることも不可能なのである。たとえその場合には当てはまっても、一般に必ず当てはまらなければ、個々の了義・未了義にも「これがこちらである」と説かれるに過ぎないもので更に〔他の場合の了義・未了義〕証明することなど不可能である(8)つまりある経典を引用してそれによって了義・未了義を設定することは出来ないということである。それはその経典の設定方式によって他の経典の設定方式に抵触してしまうからであり、ある了義未了義の設定形式を採用するのならば、その形式が教説全体に対して当てはまらなければならないということである。からなのである。

したがって〔釈尊御自身により〕「教説の了義・未了義を判別するだろう」と授記された大馬車たちにより了義・未了義の密意を注釈され〔たテキストを読むだけではなく〕、それがまた〔それらは〕了義の教説の意味を他のものへと導くような解釈を退け、他のものへと導くことが出来ない、まさにこの意味であると確定なさった正理によって善く決択されたものだけに準拠して、密意を探求しなくてはならないのであり、最終的には、無垢な正理だけによって判別しなくてはならないのである。何故ならば正理と対立した学説を承認すれば、〔その学説の〕話し手(ナーガルジュナ・アサンガ)が量となれる御方であるのは不適当であり、事物の実義とはさらに「合理性によって証明されるという正理
(9)合理性により証明されるという正理とは四種道理のうちの一つである。実義を決択する時に最も主要となる正理とは四種道理であるとツォンカパは『道次第広論』で「「正理を探究すること」には四つの正理がある。(1)「依存関係という正理」(観待道理)は、諸々の結果が生じることが因縁に依存しているということである。これについてはまた、世俗と勝義とをそれらの諸々の基体をそれぞれを通じて探究することである。(2)「動作をするという正理」(作用道理)とは、火が「燃える」という動作をするなどの、諸法がそれぞれの動作をするということである。これについてはさらに「これが法である。これは動作である。この法がこれをする」と探究することである。(3)「合理性によって証明されるという正理」(証成道理)とは、量と対立しないで対象が証明されることである。これについてはさらに「ここに現量・比量・信仰出来る聖典という三つの量が有るのか無いのか」と考えて探究することである。(4)「法性という正理」(法爾道理)とは、火は熱く、水は湿気があるなどにそれらの法性であると世間で常識となっている法性と、不可思議である法性と、所依の法性に対して信仰して、その通りである他の理由を思考しないことであり、そのように探究することである。『道次第大論』(494b1-5)」と述べている。(証成道理)の証明主体(能証)を備えているものであるからである。このような意義をお考えになられて、〔釈尊は〕次のように説かれている。

比丘たちよ 賢者とは焼いたり削ったり磨くことによって
はじめてそれが金であることを知るだろう
かくの如く我が言葉も正しく考察してはじめて
護られるのであって、単に敬うことからではない(10)グンタンジャンペーヤンはカマラシーラのこの偈に対する説明を『正理滴の前主張』を引用して説明している。テキストはTattvasaṃgrahak.3587, Kālacakratantravimalaprabhāṭīkā: tāpācchedāc ca nikaśāt suvarṇam iva pānditaiḥ. parīkṣyā bhikṣavo grāhyam madvacano na tu gauravāt.

以上のことから了義・未了義の判別には二つある。すなわち、A1『解深密経』に基づく立場・A2 『無尽慧経』に基づく立場。

注釈   [ + ]

1. 還元梵語はグンタンジャンペーヤンによる。シャンブは大自在天、メーガヴァーハナは帝釈天、ヒラニヤガルバは梵天、アナガパティは欲天、ダーモーダラはヴィシュヌ神のことを表している。
2. ナーガールジュナは甚深行と中観派の開轍者(shin rta srol byed)であり、アサンガは唯識派の開轍者である。広大行の開轍者は弥勒である。この点については第一部および『波羅蜜多考究』第一章、11a6-125a3を参照。
3. 『心房』『未完割注』でグンタンジャンペーヤンは「多く聴聞された方」とはゴクロツァーワ(rNgog lo tsha ba Blo ldan shes rab)、サパン(Sa skya paN dita Kun dga’ rgyal mtshan)、プトゥン(Bu ston rin chen grub)などであり、「正理の道に励まれた方々」とはチャパ(Phywa pa Cho kyi seng nge)とその「八大獅子(Seng chen brgyad)」と呼ばれる弟子たち、「少なからず功徳の資糧のある方」とはドルポパ(Dol po pa Shes rab rgyal mtshan)などであるとすると記している。彼らは見解の面では誤っていることがあったが、実践の面としては非常に勝れていたので匿名で書かれていると述べられている。トゥケンの『善説水晶鏡』ゲルク派の章にもこの説が載せられている。
4. ツォンカパが文殊から直接教えを聞いたこと、ガーワトン、オデグンゲルなどでの宗教経験を示している。これについては第一部を参照されたい。
5. Rāśtrapāraparicchā, II k.310: śūnyatānutpādanaya avijānād eva jagad udbhramati. teṣām upāyanayuktiśatair avatārayasi api krapālutayā.
6. グンタンジャンペーヤンは『未完割注』(3b6-6a2)『心房』(14a5-16a3)において「空性・寂静・不生」、「空」とそれ自体が真実によっては空であるので「空性」であり、無始時以来不生であるので寂静であり、「無相」(兆候が無いこと)であり、未来においても勝義として生じることは無いので、不生であり、「無願」であると「三解脱門」(rnam thar sgo gsum)に置き換えて説明している。特に『未完割注』では、『倶舎論』『大乗荘厳経論』『現観荘厳論小註』『摂決択分』『中論』などを使用し、大乗小乗においてこれらが解脱に至るために重要なものであると説明している。「三解脱門」については『善説金鬘』『解説心髄荘厳』『波羅蜜多考究』などで繰り返し説明されている。
7. 「教説の了義・未了義(gsung rab kyi drang nges)」とは、教説の中から未了義の教説と了義の教説がそれぞれ何であるのかを確認することを指しているので、表現主体(brjod byed)である文節の了義・未了義である……。『心房』(21a6)
8. つまりある経典を引用してそれによって了義・未了義を設定することは出来ないということである。それはその経典の設定方式によって他の経典の設定方式に抵触してしまうからであり、ある了義未了義の設定形式を採用するのならば、その形式が教説全体に対して当てはまらなければならないということである。
9. 合理性により証明されるという正理とは四種道理のうちの一つである。実義を決択する時に最も主要となる正理とは四種道理であるとツォンカパは『道次第広論』で「「正理を探究すること」には四つの正理がある。(1)「依存関係という正理」(観待道理)は、諸々の結果が生じることが因縁に依存しているということである。これについてはまた、世俗と勝義とをそれらの諸々の基体をそれぞれを通じて探究することである。(2)「動作をするという正理」(作用道理)とは、火が「燃える」という動作をするなどの、諸法がそれぞれの動作をするということである。これについてはさらに「これが法である。これは動作である。この法がこれをする」と探究することである。(3)「合理性によって証明されるという正理」(証成道理)とは、量と対立しないで対象が証明されることである。これについてはさらに「ここに現量・比量・信仰出来る聖典という三つの量が有るのか無いのか」と考えて探究することである。(4)「法性という正理」(法爾道理)とは、火は熱く、水は湿気があるなどにそれらの法性であると世間で常識となっている法性と、不可思議である法性と、所依の法性に対して信仰して、その通りである他の理由を思考しないことであり、そのように探究することである。『道次第大論』(494b1-5)」と述べている。
10. グンタンジャンペーヤンはカマラシーラのこの偈に対する説明を『正理滴の前主張』を引用して説明している。テキストはTattvasaṃgrahak.3587, Kālacakratantravimalaprabhāṭīkā: tāpācchedāc ca nikaśāt suvarṇam iva pānditaiḥ. parīkṣyā bhikṣavo grāhyam madvacano na tu gauravāt.