2016.04.11

見返りを求めない祈り、タルチョーのある風景

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日本別院のある牛田の山のなかにはタルチョーが張り巡らされており、その風景はチベットの風景につながっている。そこには見返りを求めない祈り、チベット人の潔さ、慈悲と愛の教えが込められている。

タルチョーのあるチベットの光景

タルチョーが実際どのような理由で現在のような形で使われるようになったのかのその起源については様々な言い伝えがあるが、チベットに仏教が伝わる以前、つまりニャティ・ツェンポ王以前の時代に所謂古代ボン教が広がっている時代からあったとされている。

ボン教には、ドルポン、キャルボン、ギュルボンという三派があったが、トンパ・シェーラプの教えと異なる人々もいたので、自らの所属を示すために地・水・火・風・空の五大元素をあらわす五色の布に、各派の象徴として太陽・月・星などを絵に描いて掲げる習慣が起こった。それから各地域での争いが起こった時に、各地域がどの軍閥に所属しているのかを表し、その場所を守るという目的で旗を掲げる習慣が定着した。

7世紀にチベットに仏教が伝来して以降、チベットの人々や社会の考え方が変わり、それまでの旗の布には、幢頂瓔珞尊の陀羅尼*、ターラー礼讃、白傘蓋の陀羅尼、仏頂尊勝の陀羅尼、無量寿如来の長寿真言などが書かれるようになった。しかしそれまでのボン教の時代の五色の布を使う習慣は失われることなく、五大元素をあらわす青・白・赤・緑・黄色の布を現在のようにそのまま使うこととなったのである。(*『幢頂瓔珞の成就法』(Dhvajāgrakeyūrāsādhana, P. No. 4413 / D No.3592)))

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タルチョーはこのようにチベットの宗教と地域のふたつの習慣が合体したものであるので、現在でも何からの宗教的な行為を行う目的でタルチョーを掲げる場合と、地域の習慣に従ってタルチョーを掲げる場合との二つの習慣が混在している。

たとえば、チベット文化圏のそのほとんどではサカダワ(ヴェーサカ月)大祭、転法輪大祭、閻浮提焼香祭などの大祭にあわせて、新しくタルチョーを掲げる習慣が定着しているが、これは仏教行事に合わせたものである。

また地域の習慣としては、たとえば新年に地域の人々が集まって、山の上や天に掲げる場所の近くにいき、土地の神々(ユルラ)、それぞれ各人の生まれに関係した神々(ダラ)などに「サン」を炊いて供養し、新しいタルチョーを掲げ、それまでのタルチョーと交換し、「キキソソ・ラ・ゲルロー」と三回叫び、ツァンパや小麦、大麦などを天空に投げるといった習慣もある。

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ラサのジョカンの前に置かれるダルシン。ダルシンからはタルチョーが張り巡らされる

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ダルシンにタルチョーを巻く時にはカターなどが使われる

また地域の人々が集まる摩尼殿や僧院の大門の前には、大きなダルシン(幟の支柱)を作り、そこに幟に様々な陀羅尼を書く場合もあり、そのダルシンからタルチョーを様々な方角につなげて巡らせることもある。それ以外にも一般の家庭の家の屋上や門の上、山や丘の上などといった場所にタルチョーを張り巡らせる場合もある。

タルチョーを掲げる日取りは、新年元日、釈尊の四大祭はもちろんのこと、場所によっては2月11日、5月13日などの場所があるが、それらを掲げない方がいい日どりもあり、多くの場合には天気のよい朝の風の強い日が選ばれる。

タルチョーやタルシンなどを掲げるのは、最初はボン教に由来するものであるが、現在はチベット仏教文化圏全土に広がっている習慣であり、天空を棚引く五色のこれらはチベット文化圏の風景に共通しているものとなっている。

ルンタはタルチョーに描かれる動物たち

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近年チベット文化をよく知らないために「タルチョー」と「ルンタ」とを混同する誤解も見られるが、「ルンタ」と「タルチョー」は同一のものではない。「タルチョー」は旗であるが、「ルンタ」は動物であり、同時にそれは「運」を意味している。

「ルンタ」は、運気を運ぶと呼ばれている空を飛んでいる馬の一種であり、それは福徳や幸福そのもの、よくないものが、よい方向へと向かっていくことを象徴するものである。「ルンタ」(風の馬)と呼ばれる生物は、所謂「万能の駿馬」と言われるような「風の如く速やかに走る賢い俊足の馬」を象徴的に表している。それらは天空を飛び駆けるように運気を運んでくれる。

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チベット人にとって「ツキがやってくる」というのは「ルンタが来た」と表現され、また「ツキが逃げる」というのは「ルンタが落ちる、逃げられる」といったように表現されるのであり、タルチョーそのものがルンタではない。

タルチョーにそれらが描かれるのは、運気を向上したいという気持ちからであろうが、タルチョーにはルンタだけではなく、空を飛び財産を象徴する勾玉をもつ龍、ガルーダ、トラ、雪豹といったすばやく移動する動物たちが描かれている。それらは動物ではあるが、仏教の教えとチベット人の信仰に密接に関係するものである。

それらの絵だけではなく、タルチョーには様々な真言も同時に描かれているのである。

 

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タルチョーに込められた祈り

タルチョーにマントラや吉祥なる動物が描かれるのは、平和や、慈悲、力、智慧などが促進されることを願ったものである。しかしタルチョーが風に吹かれてなびくことで、それらを自分たちやその場所にもたらしてくれるようチベット人たちが祈っているわけではない。彼らはそれを掲げることで、天に広がる世界、そこから広がる世界全土のすべての生きとし生けるものが、平和や慈悲や力や智恵などを享受したらいいという願いを込めている。

彼らにとって古いタルチョーは、地水火風の五大元素がこの世界を豊かにしていくために使われていくことを表し、無量寿如来や仏頂尊勝の真言は衆生たちを長寿にし、白傘蓋の陀羅尼はこの世界の様々な厄災がなくなっていく、という祈りが込められている。

それは彼らが好むシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』の次のような偈に現れている。

地などの大種や虚空のように どんな時でも常に
無限の有情たちの様々な生きる要とならんことを

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隣町まで続くタルチョ

 

見返りを求めず、自業自得を見つめる

昨日の関東定例法話会でもゲシェー・ゲレク師が次の偈を引用して次のようなお話をしてくださっった。

私が我が子のように愛し育てた人が
私のことを敵のように見做すことがあろうとも
病に悶えている子をもつ母たちのように
いま以上に愛してやろう これが勝子の行である『勝子行三十七頌』

これはどんな時にでも慈悲の心が揺れ動くことなく、菩薩たちは、たとえ自分が愛する衆生たちが自分に対して何らかのひどいことをしてきたとしても、見返りをもとめず、悲しいこと、悪いこと、苦痛を与えるようなことをしてきた場合には、いままで以上に愛情や慈悲を注ぐという菩薩の考え方を説いたものである。

私たちは、常日頃さまざまなことと関係して暮している。何かを誰かのために行い、それによってその相手がどうにかなるだろうということを期待している。だからこそこれだけ働いたのにこれだけしか報酬を貰えない、これだけしかサービスを受けることが出来ないと苦情をいうことになる。しかし慈悲や愛の本質というものはそのようなものではないことを上の偈では説いている。

たとえば何人かの友人で食事をシェアするとする。自分より目上の人間といけば末席で一番美味しくないものを与えられたしても、怒ることはない。しかしながら自分と同等もしくは自分より下の存在だと思っている者と同席し、もっとも美味しくない部分を与えられた場合に、我々はその待遇に憤りを感じてしまうのである。しかし、もしもそれが菩薩ならば、そうでない。むしろ同席する者が自分よりよいものを享受したことに喜びを感じるというのである。

これは友情や信頼関係というものが見返りを求めているかどうか、という考え方、視点の違いである。菩薩たちならば、たった一回の食事の配分ごときで怒ったりはしない。客観的に考えれば、自分よりも他者がよいことを享受したことは絶対的に善いことなのである。だからこそ菩薩たちはそれを喜びとするのである。

チベット人たちが目標とする祈りとはこのようなものであり、彼らは決して見返りを求めているのではなく、自分が何かを他者に施す行為によって、最終的に自分が幸せになれるという業果の法則を感じ、理解しているのである。

もっとチベットのこと、仏教のことを知ってほしい

時々チベット人たちのメンタリティを知らない日本人が「チベットの人はお経が書いた旗を山の上に掲げて、それが風が棚引くたびに一回マントラを唱えたことになるって信仰しているらしいですよ。とっても信仰深いですね。」ということがある。

彼らはチベット人に対してシンパシーをもっている「善意」のひとなので、私たちは「すみませんが、そんな狭い考えではありませんよ」と彼らの考え方を敢えて否定しはしない。同様にルンタとタルチョーを混同した記述をはじめとする、間違った情報もたくさんある。私たちは何かの情報の誤りを訂正することよりも、正しい良質の情報を発信することに重きを置いている。

そして厄介なことには、チベットは遠い国であり、日本人はアジアのなかで経済大国だから、自分たちよりも国もなく亡命せざるを得なくなったチベット人たちのことを見下している人が多いという事実がある。多くの日本人が西欧文化を崇拝し、コンプレックスを抱いているが、アジアの文化については自分たちがリーダーであると感じている場合が多いのである。

残念ながら、同じ仏教国なのに、多くの日本人は仏教のことをよく知らない。チベットのことも全く知らないことが多い。仏教的な見地から考えれば、チベット人たちがタルチョーを掲げて世界の平和や繁栄を祈っていることは、正当な伝統であり、日本人よりも遥かにちゃんと仏教を理解しているひとつの側面である。

彼らの心は我々日本人よりもはるかに豊かで、「死んだら終わり」などと思っていない人の方が圧倒的に多く、現世を享楽的に生きているわけではない。彼らは自分自身が無限の過去の輪廻を転生してきたと考え、この先所来もまた無限の輪廻転生があり、いまはその無限の過去と無限の未来のあいだを生きていると考えている。彼らの視点は、我々よりもはるかに遠く、そして将来設計も長期的なのである。

かつて島国であった日本は近年グローバル化している。しかし物質的なグローバル化だけではなく、心のグローバル化もそろそろ必要ではないだろうか。仏教はもともとインドに起こった宗教であり、最初から様々な言語で語られたグローバルな宗教であり、他言語や多文化のなかで普遍的な知性を説いてきた宗教である。我々日本人が仏教を理解しようとするとき、まずは漢字文化圏、そしてインド・チベットの仏教を知ることは極めて重要なのである。

私たちが日本でチベットの伝統に触れること、タルチョーのある風景に触れること、それは果てしなく広い世界とコネクトされている。


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