G2 方便と智慧とを別々に学んだのでは成仏できない


Created: 2010-03-27 Last updated: 2016-09-23 Author:事務局

 仏位を成就する方便に従事するということは、誤りのない方便というものが必要となるのであり、誤った道にいくら励んだとしても、果が生じることはないのである。それは乳搾りをしたいと思って角を引っ張っているようなものである。

 また誤っていないとしても、不足分があるのならば、果が生じることはない。これは種、水、土などのどれが不足しても、芽がでることがないのと同様であると『修習次第中編』に説かれている。

 それでは、不足せず、誤ってもいない因縁というのは一体何かといえば、これについては『大毘盧遮那現等覚』で

秘密主よ。一切を知るその智慧は、悲という根より生じたものなのであり、菩提心の根より生じたものなのであり、方便を究竟したものなのである。

と説かれる。ここでの「悲」については既に説明した。「菩提心」とは世俗菩提心(慈悲心から生まれたもの)と勝義菩提心(空性理解から生じたもの)との両方を指しており、「方便」とは布施などものを究竟したものであると、大馬車カマラシーラは説明している。

 そのような道について誤解している支那和尚などの者は次のように主張する。

分別であるかぎりにおいて、悪い分別であるのは言うまでもなく、良い分別であっても輪廻に縛りつけるものである。したがって結果的には輪廻から逃れられないことになるだろう。金でできた鎖であっても、縄でできた鎖であっても、それらによって縛られるのである。白い雲であろうとも黒い雲であろうとも、その両方ともが天空を覆うのである。白い犬であっても、黒い犬であっても、噛まれれば痛みが起こるのである。これらと同様である。したがって、何も分別しないでおくことこそが成仏への道である。布施や戒などは、このような了義を修習できない愚者のために説かれたものであるので、了義を得て、それらの行に従事することは、王が民へと堕落するかの如きであり、象を発見した後に、いまだに象の足跡を追いかけるようなものなのである。

ここで和尚は何も分別しないことを推奨する経証を八十ほど引用している。

 しかしながらこれは“方便分のそのすべてが真の仏道ではない”という大いなる損減である。勝者の教説の心髄たる無我をそれぞれ個別的に考察する智慧によって行を否定してしまったことで、勝義の理趣を遠く退けてしまっている。

 これはカマラシーラによって無垢なる聖言と正理によって正しく否定された後、勝者の歓喜する賢道が興隆なされたが、今日でもなお、持戒などの行分を軽視し、“道を修習する際にはそれらは捨てられる”などと以前のように主張しているのであり、またあるものは、〔摩訶衍和尚の主張のうち〕方便分を損減した部分を除けば、見に対する理解の仕方や、“個別的な観察をする智慧による実義の見解を追求を廃し、何も思わない”というこの支那の修習〔それ自体は〕善きものであると主張する者もいるようである。

 これが空性の修習分に属するとも思われないが、たとえそれを空性修習であるとしたとしても、“空性の意味を正しく修習する者は空性だけを修習すべきであり、行分である世俗の主体を修習する必要がない”ということは、一切の教説に矛盾し、正理道よりも逸脱してしまうのに過ぎないと思われる。何故ならば、大乗者の実現すべきものは、無住処涅槃なのであり、そのうち輪廻に住していないということは、実義を証解する智慧・“勝義に基づく道次第”と呼ばれるもの・“甚深道”とか“智慧資糧”とか“智慧分”と呼ばれるものによって実現され、寂静涅槃に住さないことは、ある限りのものを知る智慧と“世俗諦に基づく道次第”・“広大道”・福徳資糧”・“方便分”と呼ばれるものによって実現しなければならないからなのである。

 すなわち次のように説かれるのである。『秘密不可思議経』にはこう説かれている。

智慧資糧によって、一切の雑染を断じることになるのです。福徳資糧によって一切衆生を育むのである。世尊よ、そのようでありますから、菩薩摩訶薩は福徳と智慧の資糧に精進しなくてはならないのです。

また『維摩経』でも菩薩の繋縛とは何か、解脱とは何か、という問いの答えとして、

方便を伴わない智慧、それが繋縛である。方便を伴う智慧、それが解脱である。智慧を伴わない方便、それが繋縛である。智慧を伴う方便、それが解脱である。

とこのように説かれるのである。さらには『伽耶山頂経』でも、

諸々の菩薩たちの道とは要するに二つである。二つとは何か。方便と智慧である。

と説かれており、この意味について『菩提道灯論』でさらに、

般若波羅蜜との瑜伽を離れて 障を尽くすことはできない
それ故 煩悩および所知の障を残りなく断じるために
般若波羅蜜との瑜伽行を常に方便を伴い修習すべきである
方便を欠いた智慧や智慧を欠いた方便 それらが繋縛すると説かれる
だからこそその両者を断ってはならないのである

と説かれるのであり、また、

般若波羅蜜多以外の布施波羅蜜などの
善資の一切を勝者は方便であると説かれたのである
方便を修習することによって般若を修習することになるのであり
それによって菩提を速得することになるのである
それは無我のみを修習することからではないのである
蘊、処、界などが不生であると証解した
自性空性の智慧が智慧であると普く説かれるのである

とはっきりと説かれているのである。また『宝髻経』では“布施などの一切の方便分を具足している一切勝相を具えた空性を修習しなくてはならない”と説かれており、『一切方広摂経』でも、

 諸々の菩薩は菩提のために六波羅蜜を成就しようとするが、愚か者は、般若波羅蜜多だけを学ぶべきものとして、残りのものは、一体何故学ばなければならないのか、と批判的に思うのである。

 愚か者たちは一つの方法のみによって菩提がある。それは空性の理趣によってであると述べる。彼らは行を不浄なものとするのである。

とこのように説かれているのである。

 もしも次のように言うとしよう。「布施等の行を学ぶのは、空性に対する理解が確固としていないならば、そうであるがもしそれがあるのならば、それだけで充分なのである。」

 もしこの通りであるとすれば、初地等を得ている勝子や特に無分別智自在を得ている第八地の勝子には行が必要ではないことになってしまうだろうが、それは正しくない。十地のそれぞれにおいては、布施等がそれぞれ主要なものなのであるけれども、残りののものを行じないということではないのである、と十地経で説かれているので、それぞれの地において六ないしは十波羅蜜のそれぞれを行じると説かれているのである。特に第八地において、すべての煩悩を滅尽したことによって一切の戯論が寂滅している勝義なるものに住している時、諸仏は「空性理解というこれだけによっては成仏できない、何故ならば、声聞・独覚もそれを得ているからである。私の身体と智慧と国土などが無量であることを見るがよい。私の力などもまた汝たちには備わっていない。だからこそそれゆれにこそ精進するがいいのである。有情は寂静ではなく様々な煩悩によってもだえていることを考えるがよい。これらに耐えることを捨てるでない。」(※見直し必要)など勧め「菩薩行を学ばなければならないことは、他は言うまでもないのである。

 高次の真言無上道の段階においては、これ(波羅蜜乗)とは異なるものが有るとはいえども、一般的に真言と波羅蜜の両方に二つの発菩提心と六波羅蜜の道の全体は、粗大なレベルで共通しているのは、以前にも解説した通りなのである。

 次のように思うかもしれない。「布施などは不要であるとは主張しないが、何も思わないというこれに、それらは備わっている。施しの対象、施しの主体、施す物といこれらに執着ないことによって、無縁の布施が備わっているのであり。同様に他のものもまた備わっているのである。何故ならば、『経典』でもそれぞれ〔の波羅蜜〕のなかに六つずつが集約されていると説かれているからである。」

 しかし、もしそれ(不思)だけによってそれらが備わっているになるならば、外道の者が心を一心に集中させている奢摩他もまた、三昧時には、そのようなものに対する執着はないので、すべての波羅蜜を備えていることになってしまうであろう。特に『十地経』に説かれる如く、声聞独覚にも法性に対する無分別智は有り、それ(法性)に対する三昧時には、すべての菩薩行を備えていることになってしまい、彼らは大乗者であるということになってしまうだろう。各々のものに六つがそれぞれ集約されてていると説かれているので、それだけでよいと主張するのならば、マンダラ供養をする際にも、「牛の糞と尿を施して」と述べたとしても、〔その行為のなかに波羅蜜が〕六つすべてが有ると説かれているので。それだけをすべきであるということが正しいことになってしまうのである。

 このようなことから、見を伴う行、方便を伴う智慧とは、たとえば可愛い息子が死んでしまった悲しみでもだえている母親が、他の人と話をするなどの行為を行う時に、どのような意識が起こっていても、悲しみの力よって〔その別の意識が〕捨てられるわけれではない。しかしながら、すべての意識が悲しみの意識であるというわけでもない。それは悲しみの力がそれを捨てることがないけれども、意識がすべてが悲しみの感情でもないのである。これと同様に、空性を理解する智慧が強力なものであれば、礼拝や右繞などをする時に、それらを対象としているその意識は、空性理解ではないけれども、その力を有したまま働いていることは矛盾していないのであり、一座の始まりの時に菩提心を非常に強く心に起こしているのならば、空性に対する三昧を行う時に、その菩提心自体は無いけれども、その力を伴っていることは矛盾していないのであり、方便と智慧とが不可離となっている状態もまたこのようなことなのである。

 福徳資糧の果は、輪廻の身体や受容や長寿などである、と説かれていることについても迷乱するべきではない。方便と智慧とが分離してしまっているのならば、そのような〔あくまでも輪廻における利益をもたらすもの〕であるけれども、それを伴っているものであれば、それは解脱と一切智の因として極めて相応しいものなのである。『宝行王正論』でも「色身とは要するに、王よ、福徳の資糧より生じたものである」と説かれている通りなのであり、〔このことについての〕聖言も無量にあるのである。

 または「悪趣の因となる悪行や一切の煩悩であっても仏因へと変化させることができる」と言うものもいるし、「増上生の因となる布施や戒律などの諸々の善はまた輪廻の因なのであって、菩提の因とはならない」と語るものもいるようであるが、心を正しくして語るべきなのである。

 経典で「布施等の六つに執着することは魔の仕業である」とか『三品経』でも「所縁に堕して施しをなしたり、禁忌を最高のものとして戒め守ったりしたこと(戒禁取)などをそれぞれ懺悔せん。」と説かれており、『梵天所問経』では「一切の行は分別である。完全なる無分別は菩提である」と説かれているが、これらについても迷乱すべきではない。最初の文は、二我に対する転倒した執着によって動機づけられた布施などは、清浄なものではないので、魔の仕業であると説いているのであって、布施などが魔の仕業であると説いているわけではない。もしそのようでないのだとすれば、「所縁に堕して布施をした」と説かれる「所縁に堕して」という部分は不要となり、一般に「布施をしたことを懺悔せん」と説かれる方が正しいということになってしまうが、そのように説かれることはないからである。 『修習次第』後編で為されるこうした回答は、極めて重要なのである。何故ならば、これを転倒して理解したことから、“一切の行分は、人・我の相執である”として有相(分別)であると主張しているからである。

 もしも“このものを与えよう”という与えようという心や“この悪行をしないようにしよう”という律する心やそのような善き分別とのすべてが三輪に執着する法我執であるのならば、法無我の見解を得ている者たちによって、瞋恚や我慢などと同様に如何なる場合であっても否定することが正しいものなのであって、その目的のために、それらを実践すべきではないことになるだろう。

 “これがそれである”という分別の一切が、三輪へと分別する法我執であるとしてしまうとしよう。すると善知識の功徳や有暇の重要性などを思ったり、死を想起し悪趣の苦しみを思い、帰依することや、この業によってこの果が有るとか、慈悲や菩提心を修養し、行心の所学を学ぶことなど、そのすべてについて、“これがそれである”、“これにはこの功徳があり、これにはこの過失がある”ということを思うことを通じて強い決心をしなければならないものばかりなのである。〔しかしそれらが法我執であるならば〕それらについてそのような決心が強ければ強いほど、法我執がより増加していることになってしまうのであり、法我執に対する確定を強く持てばもつほど、それらの行道に対する確定は減少することになってしまうのである。もしもそうならば、行分と見分とのこの二つは、熱さと冷たさのように対立したものに属することになるので、両方に対する確信が強くなり永続的にそれが起こることなど有り得ないことになってしまうのである。

 それゆえに、果位における法身という獲得対象と色身を獲得させるためのもの〔方便〕との二つは対立しているものではないのと同様に、道位におおいても二我であるという相執の志向している対象に微塵も余すことなく戯論を離れているものへと決定知を導きだすことと、これからこれが生じる、これにはこうした功徳や過失が有るということへの決定知を導きだすこととの両者を互いに相矛盾することなく為さなければならないのである。

 これらは基盤となる二諦の確定内容に依存しているものである。したがって、聖言と正理によって、輪廻と涅槃の一切法についてそれ自身の実相や本性においては、自性は微塵ほども成立していないことを確定する諸々の勝義を設定する量と、因果の法は僅かばかりの例外も一切なく、各々の必然性を有した因果を設定する言説の量との両者が、相互に拒斥されるもの・拒斥するものとなるかのかどうか〔それらはそうならないのは〕もちろんのこと、片方がもう一方を補完するものとなることに確定を得るのならば、それ以降は、二諦の意義を証解したことになるのであり、“勝者の密意を得ている”ということに数えられることになるのである。

 先ほどの第三番目の〔「一切の行は分別である。完全なる無分別は菩提である」という〕経文の意味は、この経典の当該箇所は生起等を考察している箇所であるので、布施等が実義としては生じないということを示すことについて“分別である”と分別によって仮設されただけのものであることを教示しているものなのであって、それらを実践すべきではなく、捨てるべき対象であるということを教示しているものではない、と『修習次第』後編で説かれている。

また〔修習すべき菩薩の〕道も一部分だけでは不十分であるということについては、『経集成』でも「方便に善巧することなしに、菩薩は甚深法だけに精進すべきではない」とはっきりと説かれているのであり、『秘密不可思議経』でも

 善男子よ。このようである。火とは因より燃え盛るものであり、因が無ければ消えてしまうものなのである。それと同様に所縁とするものから心は燃え盛るものなのであって、所縁が無ければ心は寂静なものとなるのである。それゆえに、方便に通暁しようとする菩薩は、完全に清浄なる般若波羅蜜多によって所縁の寂滅を知っているが、善根における所縁を寂滅させることはないのである。雑染に対する所縁はまたそれを起こさないようにするけれども、波羅蜜の所縁とするものには、そこに心を留めようとするのである。空性の所縁にはまた観察をなすけれども、一切衆生に対する大悲心によって所縁をもまた見るのである。

とこのように所縁がどのように無いのかということと所縁が有る場合とがそれぞれ説かれており、〔その両者は〕区別しなければならないのである。

 またこれと同様に煩悩と相執との繋縛は解きほどかなければならないが、所学という縄で自らを強く律する必要があり、〔性罪と遮罪という〕二つの罪を滅する必要があり、善なる行為を滅すべきではないので、所学によって束縛しなければならないのであり、そのことと相執有によって束縛されていることとの二つは同じではないのであり、守るべき律儀が解けてしまうことと、我執の呪縛が解けることとの二つは同じではないのである。したがって“断滅者”とか“自解脱”等ということの意味もよく考察する必要がある。

 阿闍梨カマラシーラが思惟しないことをどのように否定した内容について述べるならば、真実の義を確定する見解そのものは問題とすることなく、それとは異なった心に何も思惟しないことに対して精神を集中させた修習というものを否定したのではない。そうではなく、見解によって実相の義を確定した対象としては何らの設定すべきものがなく、心は何も分別しないように単に安住させることが空性修習における修習であるとすることを否定されているのである。

 このことは密教においても波羅蜜乗(顕教)においてもどちらでも同じことである。しかしながら、その二つの教義において、個別観察する智慧による考察がどのように為されるのかということについては様々な規定がどのように有るのかということ等は、後に解説することにしよう。