作成日: 2010-03-27 最終更新日: 2016-09-25 作成:事務局

【F3 発心後に菩薩行を如何に学ぶべきか】

 F3には三つ。G1発心した後に所学を学ばなければならない理由、G2方便と智慧とを別々に学んだのでは成仏できないこと、G3所学を学ぶ次第そのものの解説。

G1 発心した後に所学を学ばなければならない理由

 
 このように願心を発した後に布施などの所学を学ばなかったとしても、先に引用した〔『華厳経』入法界品の〕「弥勒解脱」の聖言に説かれるような大いなる功徳(1)『華厳経』入法界品。大正 No. 278, 779c-780a: 善男子よ。譬えば、ダイヤモンドは、粉々に砕け散ってしまうとも、一切の優れた金の宝飾品を猶圧倒して、ダイヤモンドという名前をも棄てることもなく、ありとあらゆるすべての貧困を取り除くだろう。善男子よ、このように一切智へと心を起こすならば、たとえ努力を欠いたとしても、声聞独覚の功徳という黄金の宝飾品を圧倒するのであり、菩薩の名を棄てることはなく、ありとあらゆる輪廻という一切の貧困を退けるのである。
が有ることは有るが、しかしながらもしも菩薩の所学を成就することに専念しなければ、成仏することはあり得ないので、菩薩行を学ばなければならないのである。すなわち『三昧王経』では、

それゆえに、成就に専念すべきなのである。それは何故だろうか。青年よ、成就に専念する者にとって、無上正等覚を獲得することは困難なことではないからである。

と説かれている。

『修習次第初編』でも、

そのように発心した菩薩は、自らを律しなければ、他者を律することなどできないことを知り、自分自身が、布施などを成就することを全うしようとするのである。それらを成就することなしには、菩提を獲得することなどないのである。

と説かれているのである。〔菩薩行を〕成就するということはまた、〔菩薩〕律儀を守った上で、その所学を学ぶことにほかならない。

G2 方便と智慧とを別々に学んだのでは成仏できない

仏位を成就する方便に従事するということは、誤りのない方便というものが必要となるのであり、誤った道にいくら励んだとしても、果が生じることはないのである。それは乳搾りをしたいと思って角を引っ張っているようなものである。

また誤っていないとしても、不足分があるのならば、果が生じることはない。これは種、水、土などのどれが不足しても、芽がでることがないのと同様であると『修習次第中編』に説かれている。

それでは、不足せず、誤ってもいない因縁というのは一体何かといえば、これについては『大毘盧遮那現等覚』で

秘密主よ。一切を知るその智慧は、悲という根より生じたものなのであり、菩提心の根より生じたものなのであり、方便を究竟したものなのである。

と説かれる。ここでの「悲」については既に説明した。「菩提心」とは世俗菩提心(慈悲心から生まれたもの)と勝義菩提心(空性理解から生じたもの)との両方を指しており、「方便」とは布施などものを究竟したものであると、大馬車カマラシーラは説明している。

そのような道について誤解している支那和尚などの者は次のように主張する。

分別であるかぎりにおいて、悪い分別であるのは言うまでもなく、良い分別であっても輪廻に縛りつけるものである。したがって結果的には輪廻から逃れられないことになるだろう。金でできた鎖であっても、縄でできた鎖であっても、それらによって縛られるのである。白い雲であろうとも黒い雲であろうとも、その両方ともが天空を覆うのである。白い犬であっても、黒い犬であっても、噛まれれば痛みが起こるのである。これらと同様である。したがって、何も分別しないでおくことこそが成仏への道である。布施や戒などは、このような了義を修習できない愚者のために説かれたものであるので、了義を得て、それらの行に従事することは、王が民へと堕落するかの如きであり、象を発見した後に、いまだに象の足跡を追いかけるようなものなのである。

ここで和尚は何も分別しないことを推奨する経証を八十ほど引用している。

しかしながらこれは“方便分のそのすべてが真の仏道ではない”という大いなる損減である。勝者の教説の心髄たる無我をそれぞれ個別的に考察する智慧によって行を否定してしまったことで、勝義の理趣を遠く退けてしまっている。

これはカマラシーラによって無垢なる聖言と正理によって正しく否定された後、勝者の歓喜する賢道が興隆なされたが、今日でもなお、持戒などの行分を軽視し、“道を修習する際にはそれらは捨てられる”などと以前のように主張しているのであり、またあるものは、〔摩訶衍和尚の主張のうち〕方便分を損減した部分を除けば、見に対する理解の仕方や、“個別的な観察をする智慧による実義の見解を追求を廃し、何も思わない”というこの支那の修習〔それ自体は〕善きものであると主張する者もいるようである。

これが空性の修習分に属するとも思われないが、たとえそれを空性修習であるとしたとしても、“空性の意味を正しく修習する者は空性だけを修習すべきであり、行分である世俗の主体を修習する必要がない”ということは、一切の教説に矛盾し、正理道よりも逸脱してしまうのに過ぎないと思われる。何故ならば、大乗者の実現すべきものは、無住処涅槃なのであり、そのうち輪廻に住していないということは、実義を証解する智慧・“勝義に基づく道次第”と呼ばれるもの・“甚深道”とか“智慧資糧”とか“智慧分”と呼ばれるものによって実現され、寂静涅槃に住さないことは、ある限りのものを知る智慧と“世俗諦に基づく道次第”・“広大道”・福徳資糧”・“方便分”と呼ばれるものによって実現しなければならないからなのである。

すなわち次のように説かれるのである。『秘密不可思議経』にはこう説かれている。

智慧資糧によって、一切の雑染を断じることになるのです。福徳資糧によって一切衆生を育むのである。世尊よ、そのようでありますから、菩薩摩訶薩は福徳と智慧の資糧に精進しなくてはならないのです。

また『維摩経』でも菩薩の繋縛とは何か、解脱とは何か、という問いの答えとして、
 

方便を伴わない智慧、それが繋縛である。方便を伴う智慧、それが解脱である。智慧を伴わない方便、それが繋縛である。智慧を伴う方便、それが解脱である。

とこのように説かれるのである。さらには『伽耶山頂経』でも、

諸々の菩薩たちの道とは要するに二つである。二つとは何か。方便と智慧である。

と説かれており、この意味について『菩提道灯論』でさらに、

般若波羅蜜との瑜伽を離れて 障を尽くすことはできない
それ故 煩悩および所知の障を残りなく断じるために
般若波羅蜜との瑜伽行を常に方便を伴い修習すべきである
方便を欠いた智慧や智慧を欠いた方便 それらが繋縛すると説かれる
だからこそその両者を断ってはならないのである

と説かれるのであり、また、

般若波羅蜜多以外の布施波羅蜜などの
善資の一切を勝者は方便であると説かれたのである
方便を修習することによって般若を修習することになるのであり
それによって菩提を速得することになるのである
それは無我のみを修習することからではないのである
蘊、処、界などが不生であると証解した
自性空性の智慧が智慧であると普く説かれるのである

とはっきりと説かれているのである。また『宝髻経』では“布施などの一切の方便分を具足している一切勝相を具えた空性を修習しなくてはならない”と説かれており、『一切方広摂経』でも、

諸々の菩薩は菩提のために六波羅蜜を成就しようとするが、愚か者は、般若波羅蜜多だけを学ぶべきものとして、残りのものは、一体何故学ばなければならないのか、と批判的に思うのである。

愚か者たちは一つの方法のみによって菩提がある。それは空性の理趣によってであると述べる。彼らは行を不浄なものとするのである。

とこのように説かれているのである。

注釈   [ + ]

1. 『華厳経』入法界品。大正 No. 278, 779c-780a: 善男子よ。譬えば、ダイヤモンドは、粉々に砕け散ってしまうとも、一切の優れた金の宝飾品を猶圧倒して、ダイヤモンドという名前をも棄てることもなく、ありとあらゆるすべての貧困を取り除くだろう。善男子よ、このように一切智へと心を起こすならば、たとえ努力を欠いたとしても、声聞独覚の功徳という黄金の宝飾品を圧倒するのであり、菩薩の名を棄てることはなく、ありとあらゆる輪廻という一切の貧困を退けるのである。