H2 シャーンティデーヴァのテキストに基づいた修習法


Created: 2010-03-27 Last updated: 2016-09-23 Author:事務局

これには三つある。すなわち、I1自他を交換することを功徳としない過失に対する考察・I2その思いを修習すれば、〔菩提心は〕起こり得ることの説示・I3自他の交換方法の修習次第。

I1 自他交換を功徳としない過失に対する考察

『入菩薩行論』には次のように説かれている。

誰であれ、自己や他者を速やかに救済したいと思う者、
彼は、自他を交換するという秘密の教えを行じなければならない。

また次のようにも説かれている。

あらゆる世間の楽 それはすべて他者の楽を求めることから起こる
あらゆる世間の苦 それはすべて自己の楽を求めることから起こる
いまさら説明すべきでもない 愚者は自利を求めるのであり
牟尼は利他を行われる この両者の違いをみるがよい
自己の楽と他者の苦とを正しく交換しなければ、
仏位が成就することはなく輪廻においても楽はない。

このように自己愛はすべての退廃の門であり、他者を愛することがすべての功徳の源であると考える。

I2 その思いを修習すれば、〔利他心は〕起こり得ることの説示

たとえば最初は自分に敵対しており、その名を聞くだけで恐れが起こっていた者が、後に仲良くなり、親友となった時には、彼が居なくなってしまえば、大きく落胆してしまうのと同様、心というものはそれに修習することに付き従っているものなのである。それ故に自分には他者であるかのように、他者には自分であるかのように見ることに慣れさえすれば〔利他心というものは〕起こる。『同書』によれば、

たとえ困難であるからといって諦めるべきではない。
たとえば修習したことの力によって、その名を聞くだけで恐れていたものも、
その同じ者がいなくては不幸な存在となるのである

と説かれているし、

自らの身体は他者たちのためにあるとするこのことは
それは決して難しいことではないのである。

と説かれているのである。

「他者の身体は自己の身体ではないので、そこに自分のものであるのと同じような気持ちがどうして起こりうるのだろうか」と思うかもしれない。しかしこの〔我々の〕身体もまた、父母の精液と血液からできているものであって、つまりは他者の身体の一部よりできているものである。〔それらの他者の身体の一部からできているものを〕過去に修習の力で、自分のものであるという我所執が起こっているのである。それと同様に、他者の身体に対しても、それは自分のものかのように大切にする気持ちを修習するのならば、〔利他心というものは〕起こりえるものである。『同書』には、

他人の精血の滴に あなたがかつて「私」であると捉える知を起こした如く
他者に肉体に対しても〔これは私のものであると〕修習しなくてはならない

このように功徳と過失とを正しく考察するのならば、心の底からそれを修習することに対する喜びや気合いが起こるのであり、修習をなすのならば、起こり得るものであると考えて修習しなくてはならないのである。

I3 自他の交換方法の修習次第

これには二つある。すなわち、J1障害を取り除くこと・J2修習方法そのもの

J1 障害を取り除くこと

「自他を交換する」「自己を他者とし他者を自己とする」と説かれるのは、他者を私であると思ったり(我執)、その〔他者〕眼等にたいして自分のものであると思う(我所執)心を養うことではない。そうではなく、自分は愛おしいという思いと他者を見放すという思いとの二つの思いの比重を交換し、他者を自己と同様に愛しいと捉え、自己は他者と同様に見放してしまう思いを起こすということなのである。それ故に、「自己の楽と他者の苦を交換する」と説かれるものもまた、自己愛を敵であると見なして、自己の楽をより深く追求することをやめて、他者を愛おしいと捉えることに功徳があると見なして、他者の苦しみを見放してしまうことをやめ、それを取り除くことをより深く追求する、ということなのであり、要するに、自らの楽を顧みずに他者の苦しみを取り除くことを目的としそれに従事するということなのである。

この心を養うにために二つの障害がある。

まず、自他の楽苦の所依である、自己・他者というこの二つを、まるで青や黄のように、差別化され成立していると捉え、そのことからそれを所依とした楽・苦に対しても、こちらは自分のものであるから、実現すべき、取り除くべき、と捉えることが〔この心を養うための第一の障害で〕ある。そして「こちらは他者のであるので」と見放してしまうのである。それゆえに、その対治として、〔次のように捉えなければならない。すなわち〕自己と他者とは本質的には区別がないものである。何故ならば、それは相互依存しているのであり「自己に対しても他者」という思いを起こし、「他者」に対しても「自己」という思いが生じるからである。それは「其処」「此処」という場合と同様である。これはたとえば、「其処」にたいしてはこちら側から「其処」という思いが起きるけれども、「其処」へ行ってしまえば、〔その同じ場所に対して〕「此処」という思いが生じるのと同様である。したがって、青が他のどんな色と比較しても青であるという思いが生じるが、他の色であるという思いが生じが生じないことと〔自己・他者〕は同様ではないのである。このことは、また『所学集成』では、

自己と他者とが平等であること修習することで
菩提心は堅固なものとなるだろう
自己と他者とは相対したものであり
此岸・彼岸というのと同様に
〔それ自体では存在しない〕虚偽なものであり
岸がそれ自体によって彼岸であるのではない
何かに依存して此岸となっている自己
これがそれ自体で成立しているものでないのならば
一体何に依存して他のものとなるというのであろう

と比較対象に相対して設定されただけのものであって、それ自体で成立しているものは無いと説かれている。

また、〔第二に〕「他者の苦しみによって自己が害されるわけではないので、それを取り除くことを目的として励まなくともよい」という思いもまた障害なのであり、これを取り除くことについては、「もしそうであれば、老いた時の苦しみを心配し、若い時に財を貯蓄することもない、ということになってしまうだろう。何故ならば、老いた時の苦しみが若い時の者に害を与えるわけではないからである。また同様に足の痛みも手で取り除かなくてもいいということになってしまうだろう。何故ならば他のものであるからである。」と説かれているのである。これは一例でに過ぎず、午前・午後などについても結びつけて考えることができる。

また「老いた時、若い時という場合には単一の相続体(同一人物)であるし、手足の場合にも単一の集合体であるので、自己と他者というのとは同じではない」と考えるかもしれない。しかし、相続や集合体というのものそれ自体はまた、多くの刹那や集合を構成する多くの要素の上に想定されたものであり、それゆえに、それ自体の単独な個体というものが存在しているわけではなく、「自己の我」も「他者の我」と呼ばれているこのものも、集合し相続しているこのものの上に設定しなくてはならないので、自己・他者というのは相対的に設定されただけのものであって、それ自体によって成立しているものはないのである。

しかしながら、無始時以来愛おしく思うことに修習しているその力によって、自己の苦しみが起こるのに耐えられないのである。それ故に、また他者を愛おしく思うことに修習するのならば、その苦しみにも耐えられないという思いは起こり得るのである。

J2 修習方法そのもの

自己に愛着しそれにより自己を愛おしく思ってきたこのことが、輪廻の無始以来の今に至るまで、望んでもいないさまざまなものを引き起こしてきたのであり、自分を充実させようとは思ってはいるけれども、自利を中心として方便ではないものへと従事させ、何阿僧祇劫もこれまで経ってはいるけれども自利も利他もいずれも達成していない。それだだけでなく、苦しみのみで困窮させてきたのである。この自利への思いを他者へ移してはたらかせるのならば、とっくの昔から成仏して、自利・利他の一切を円満することとなったはずであることは疑う余地がないし、そのように為さなかったことによって苦難に堕ち、無意味に時間を過ごしていたのである。いまこのように〔自己愛の欠点を〕理解するようになり、最大の敵であるところの自己愛というこれを正知・正念に基づいてさまざまな努力によって、いままで起こっていないものを起こすことはなく、既に起こっているものを継続させまい、と思う決意を固めて、何度もそれを修習するのである。

これと同様に、他者を愛おしく思うことの功徳を何度も考えて、心の底から情熱を起こし、まだ起こっていない他者を見放す気持ちは、起こらないようにし、既に起こったものはそれが続かないようにし、他者を惜しべきものである、愛おしいものである、好ましいものであるというこういった気持ちを起こすことを通じて、過去に自己を愛おしく思っていたのと同様に、他者を愛おしく思う気持ちを起こさなければならない。

ジョウォ〔・アティシャ〕も「慈と悲を学び知らずして、菩薩をチベットでは知っているというのか」と説かれたのであり、では一体何からはじめたらよいのかといえば、「まずはじめは順序立てて学んでゆかなければならない」と説かれたのであり、ラン・リタンパも「シャウォパと私の二人には十八の人間の方便、一つの馬の方便とで十九ある。人間の方便とは、最勝菩提へと心を起こして、何を為すとも衆生の利益のために学ぶというこのことである。馬の方便とは、未だ生じていない菩提心を起こし、起こしただけに留まらずそれを更に増大させようとしないものは自己愛であるので、これを隅に追いやり損なうものは何であれそれを培うことである。有情を直視してそれを利益するものは何であれそれを培うということである」とおっしゃったのである。カムルンパもまた「我々が兄弟である有情たを見下してきたことで、有情たちもまた我々をそのように扱ってきたのである」と説かれている。

大乗の根幹に至っているのかどうか、大乗者の一員となっているのかどうかということのすべてはこのことに帰結するので、如何なる時であろうともそのすべてにおいて、これに対する思いであれば如何なるものが起こるともそれは善いのであり、たとえ起こすことができなくとも、そのまま留まるのではなく、それを説く善知識に師事して、このような心を友として常に共に歩み、そのようなことを説いている教説やその注釈書をみて、その因たる資料を積み、罪障を浄化し、自分もそのように心を養うことができるのならば、種は完全であり、芽開くことは間違いなのであるから、その行為の目指すところは小さなものではなく、それを喜びとすることが正しいのである。ジョウォも「大乗に入門しようと思うものは、闇を取り除き魔を静める日月の如き菩提心を劫をかけて努めて起こすがよいだらろう」とおっしゃっている通りである。