J2 その心を起こすことそのもの


Created: 2010-03-27 Last updated: 2016-10-02 Author:事務局

これには三つある。K1 慈心の修習、K2 悲心の修習、K3 増上意楽の修習。

K1 慈心の修習

慈の所縁は「楽をもっていない有情」である。行相は、「幸せであればよい」「幸せになりますように」という思いと「幸せにしなければならない」という思いである。

〔慈心の〕利益は、『三昧王経』に

千万の百万倍のビンバラ倍の国土における、
あらゆる種類の無限の多くの供養が、
優れた者を常に供養したとしても、
慈心をもつことに比べればものの数ではない(1)Samādhirāja, XXXII, k.277.

と説かれるように、非常に大きなものを究極の供養の福田に常に供養を為すことよりも、利益は大きいと説かれている。また『文殊浄土経』でも

北東の間、大自在王仏の大千荘厳と呼ばれる場における滅尽至の比丘の〔享受している〕楽の如く、〔この世界の有情は〕楽を有する。そこで一千万年の梵行積んだ者が、この娑婆世界において、たとえ弾指の間でさえ一切有情に対する慈の心が起こるのならば、過去に積んだ業よりも遥かに多くの功徳が起こるのである。もしもそうであるとすれば、昼夜その場所に住む者たちはいうまでもないだろう。

と説かれている、『宝行王正論』でもまた

三百杯美味なる小さな粥を一日に三度与えることよりも、
一瞬の慈心の功徳に比べることはできない。
神々や人々によって愛おしきものになるのであり、
彼らによって守られ、そして気にされ、気にいられ、
毒薬や武器による危害が与えられることはく、
努力しなくても大きな目標を獲得し、
梵天世界に生まれることになるのである。
たとえ解脱できなくとも、慈法の八功徳を得るだろう。

と説かれており、慈心が有れば、天人は仲むつまじく自然と集うのである。また勝者も魔軍を慈心によって退治されているので、〔慈心とは〕最勝なる護符ともなるであろう。

慈心の修習次第は、先ず親族・友人、その後に中間者、その後に敵対者に対して修習しなくてはならず、その後に、一切有情に対して順に修習してゆく。

如何に修習するかといえば、有情が苦によって苦しんでいる様子を何度も何度も思えば悲心が起こるのと同様、有情には有漏・無漏の楽が無く、楽に乏しい様子を何度も何度も考える必要がある。それを修習するのならば、「幸せになったらよい」という思いは自然に生じるのであり、しかも様々な幸せを心に想像し、それらを有情たちに与えなければならないのである。

K2 悲心の修習

悲心の所縁は、〔苦苦・壊苦・行苦〕三苦の各々で苦しんでいる有情である。その行相は、「それらの苦から離れたらいい」という思い、「離れますように」という思いと「離れるようにしなくてはならない」という思いである。修習次第は、まず親類や友人、その後に中間の存在、その後に敵対者、その後に、十方の一切有情に対して修習する。

このように平等心、慈心、悲心をそれぞれ対象を個別に区別して次第によって修習するこれは、『阿毘達磨経』に基づいて、阿闍梨カマラシーラがお作りになられたものであるが、これは極めて重要なものである。もちろん個別に区別せずに最初から一般者を所縁として学んでも〔菩提心〕は起こりそうに見えるけれども、各々を考えるとどれにも起こらないようにも見えるし、各々に対して感情が変化するという経験をここで述べたように導き出すことで、それを増大させ、最終的には、一般者を所縁として全体でも個々でもどちらを観ても清浄なものが生じることとなるからである。

修習の仕方は、母なるこの有情たちは、生存へと堕して、一般的な苦しみやさまざま苦しみを如何に経験しているのかということを考えるのであり、苦しみについては以前のところで解説した。

悲心が起こる基準は、『修習次第初篇』で、

愛おしい息子が幸せでない時と同じように、一切有情にある苦しみをすべてきれいに取り除きたいという行相の悲心が自然と働きだして、そのような本質を有するものが均質に働くようになった時、それは完成しているのであり、大悲心という名称を得るのである。

と小さな息子が心底ひどく苦しんでいるときにその母親が起こす悲心が起こるが、それと同程度のものが、一切有情に対して、自然と起こるのならば、大悲心と呼ばれる条件を充たしている、と説かれている。これによって大慈心が起こっている基準も知ることができる。

K3 増上意楽の修習

このように慈心を悲心を修習した最後に、ああ、私にとって美しくも愛おしくもあるこれらの有情たちは、このように楽に乏しく苦に悶えている、彼らがどのようにすれば幸福に出会い、苦しみから脱っせるのだろうか、と考えて、彼らを解放させるという責務を担うのである。最低でも、言葉で心を修練する必要がある。これは恩に報いる箇所にも若干あったが、ここで示されているのは、幸福になればよい、苦しみから離れればよいという慈悲では不充分なのであり、有情に対して自らがその利楽を実現しようという思いを引きだすことのできる慈悲を起こす必要があるということを示しているからなのである。また これらは座中だけではなく座後等の如何なる行動においても想起し、〔そのような心を〕心相続に絶えず守るように『修習次第中編』では説かれている。

注釈   [ + ]

1. Samādhirāja, XXXII, k.277.