作成日: 2010-03-27 最終更新日: 2016-10-02 作成:事務局

【J2 それ以外の因果がそれの因果とどのようになるのか】

 J2には二つ。K1 知母より慈までの因果関係、K2 増上意楽と発心の因果関係。

K1 知母より慈までの因果関係

 一般に単に苦しみから離れたいと気持ちは、その有情の苦しみを何度も思えば生じるのであるが、その心がより容易く強力なものとして堅固に生じるためには、それ以前にその有情が好ましく愛しく惜しむべき形相を伴っていなければならない。たとえば、友人に苦痛が生じるとそれは忍びがたいが、敵対している者に苦痛が生じると嬉しく思ってしまうし、友人でも敵でもない中間の存在に苦痛が生じる多くの場合には、無関心な捨が生じるであろう。このことと同様なのである。

 最初の場合は、心には好ましい存在しているからであり、それを愛おしく思っていれば思っている程、苦しみに堪え難いという気持ちもそれだけ〔強く〕生じる。愛情が小さかったり、中程度のものに過ぎない者に対しては、その多くの場合には忍びないという気持ちも比較的に小さく、極めて愛おしく感じている者に対しては、小さな苦しみであってもそれが耐えられないという大きな気持ちが生じるからである。敵対する者に苦しみが生じるのならば、それから離れればよいと思う気持ちが起こることはない。それだけではなく、更にそれよりもより大きなものがあればいい、とか、それから離れなければいい、という気持ちが生じるであろう。これは〔その対象が〕好ましくないことによって、起こっている。この場合もまた、好ましくないという気持ちの大小に応じて、苦しみが起こっている時の喜びの大小が変化する。敵でも味方でもない中間の存在が苦しんでいる場合には、それは忍びないという気持ちも起こらないが、嬉しい気持ちも起こらない。これは好ましいわけでもないし、好ましくないわけでもいずれでもないということに依っている。

 以上のようなことから、有情を親族であると修習することは、好ましい感情を引き起こすことを目的としているのであり、親族のなかで究極のものは母親であるので、〔一切有情は自分の〕母であると修習するのであり、その恩を想い、恩に報いなければならないと思うこの三つは、〔有情を〕好ましく思い、それに対する愛情を実現させるものなのである。そして、有情を一人子の如く心で愛おしく捉える慈心とは、それら三つの感情の結果なのであり、それらによって悲心は生ぜしめられるものなのである。幸福になったらよいという慈心と〔苦しみから離れたらよいという〕悲心には〔どちらが原因でどちらが結果となるのかといった〕因果の確定は見受けられない。

 発心が生じる因として、有情を親族であると修習する、というこれは、阿闍梨チャンドラキールティやチャンドラ〔ゴーミン〕尊者や阿闍梨カマラシーラたちによって説明されたものである。

K2 増上意楽と発心の因果関係

こうした心を次第に従って修養することから悲心が起こった時、有情を利益するために仏位を得たいという気持ちが起こる。したがってそれだけで充分ではあるが、にもかかわらずその〔悲心と発心との〕間に増上意楽〔という一つの項目〕が入っているのは何故なのだろうか。

〔それは次のような理由による。〕有情が安楽となればよい、苦しみから離れればよい、という慈心と悲心たる無量心は声聞・独覚にも有る。しかし一切有情の楽を成就し、苦を取り除いてやろうという責務を担う思いは、大乗者以外にはない。このような理由から、強い意志である増上意楽を起こすことが必要となる。このことは『宝性論』で『海慧所問経』を引用している箇所から知ることができる。

このように有情を解脱させたいという気持ちが起こっている時、自らの現在のこうした境涯では、ひとりの有情の利益をも完全に為すことは不可能であるだけではなく、たとえ〔声聞や独覚といった〕二つ阿羅漢の境位を得ても、一部分の有情を利益するに過ぎないし、彼らが目的としているもののなかでも単なる解脱のみを成就してやることができるのであって、一切智者等へと導くことはできない。それゆえ無辺の有情と彼らの当座・究極の目的のそのすべてを誰が全うすることができるのだろうか、と考えたとき、ただ仏のみにこそにその能力が有ることを知り、そのことを通じて、有情を利益するために仏位を得たいという気持ちが起こるのである。