B2 全ての教えが教授として見えるようになるという点での偉大さ


Created: 2010-03-21 Last updated: 2016-09-23 Author:事務局

ある者達は「諸々の偉大な典籍には実践のために大事な事柄は説かれておらず〔それらは〕単なる説明のための教えに過ぎない」と考え、「実践する上で大事な要点を説示する教授は他所にある」と理解した上で、「正法それ自体の中に、説明のための教えと実践のための教えとがそれぞれ別々にある」と考えている。〔しかし、その考えは〕無垢の経典とタントラ、および、〔それらの〕密意を解明する論書に対して深い尊敬の念を起こすのを妨げるものである。そして、〔彼らは〕「内的な事柄は説示されておらず、単に外的な事柄が明らかにされているに過ぎない」と考えてそれら〔の経典、タントラ、論書〕を軽蔑の対象と捉える〔のであるが、彼らは仏教の〕教えの放棄という業障(五つの無間悪業に匹敵する罪)を積んでいるのだと知るべきである。

「教授(གདམས་ངག; अववाद)」という語は、一般に教師が弟子に与える訓戒の意味で用いられる場合もあるが、ここでは「解脱への道を誤りなく示した正しい言葉(ཐར་ལམ་མ་ནོར་བར་སྟོན་པའི་བརྗོད་བྱེད་རྣམ་དག་)」を意味するので注意を要する。

したがって、解脱を求める者達を欺かずに〔正しく解脱へと導いてくれる〕最高の教授とは、〔仏教の経典、タントラ、論書といった〕諸々の偉大な典籍に他ならないのであるが、〔彼らは〕自分自身の智慧が劣っていることなどの理由から、〔それらの典籍が〕最高の教授であるということをその典籍のみに依拠して確定することができずにいる。そのため、「勝者の教授にこそ依拠して、それら〔の典籍の偉大さ〕についての確信が得られるように努めよう」という思いで教授を追求しなければならない。そして、これとは逆に「諸々の典籍は単に外的なことを明らかにしたものであるので無意味であるが、それに対して、諸々の教授は内的な事柄を説示しているので最高のものである」などと考えるべきではない。

偉大な瑜伽行者チャンチュプ・リンチェンのお言葉には「教授を理解するということは、手のひらに乗る程度の小冊子についての確信を得ることを意味するのではないのであって、全ての〔仏教の〕教説が〔解脱へと導く〕教授であると理解できるようになることを意味するのである」とある。また、チョウォ・チェンポ〔アティーシャ〕の弟子ゴムパ・リンチェン・ラマもまた「アティーシャの教授のもと、一座において身体、言葉、精神の三つ〔の悪い所〕が微塵に砕けたので、今や全ての典籍が〔解脱へと導く〕教授であると理解できるようになった」と仰っている。〔我々も〕この通りに理解しなければならない。

〔ドム〕トゥンパ・リンポチェのお言葉の中には「〔仏教の〕教えを数多く学習した後で、教えを実践する仕方を他所に探し求める必要性を感じるならば〔その人の考えは〕間違っている」ということが説かれている。このように、長期間にわたって〔仏教の〕教えを学習したにもかかわらず、教えを実践する仕方を全く知らずに、教えを実践したいという意欲が生じ、どこか他所に探し求めねばならないという必要性を感じる者達〔がいるかもしれない〕が、〔彼らは〕前述の通り〔仏教の教えに対する〕理解が足りないがゆえに〔そのような〕誤りを犯しているのである。すなわち、〔師ヴァスバンドゥの〕『倶舎論』に

「釈尊の正法は二種である。聖典(教)を本質とするものと証得(証)を本質とするものとである。」

と説かれている通りである。ここに説かれるように〔仏陀の〕教えは聖典と証得の教えの二つ以外にない。その内、聖典の教えとは教えを実践する方法や、達成する方法を確定したものであり、証得の教えとは〔実践する方法を〕確定したとき、ちょうど確定したような仕方で達成することである。それゆえ、この二つは因果関係にある。例えば馬を走らせるときには、まず馬に走路を示し、示した後でそこを走らせるのと同様である。ある方向に走路を示した後、それとは別の方向に走らせるならば笑い物になってしまうのと同じように、あることを聴聞(聞)と思惟(思)を通じて確定した後、いざ実践しようとする際にそれとは別のことを実践(修)することがどうして適切であろうか。以上のようなことから〔師カマラシーラの〕『修習次第・後篇』には

「さらに、聴聞と思惟から起こる智慧によってあることを証得したならば、まさにその同じことを修習から起こる智慧によって修習するべきなのであって、別のことを〔修習するべき〕ではない。馬に走路を示してから〔まさにその走路を〕走らせるのと同様である。」

と説かれている。

かくして、この〔師アティーシャの〕教授は善知識に師事する作法から止観〔の修習法〕に至るまで、〔仏陀の〕教説や〔仏陀の〕密意を解明した〔論書〕に説かれる〔修行〕道の要点をもれなくまとめた上で、安住の修習をなすべきものについては安住の修習をなし、観察の修習をなすべきものについては妙観察智(物事の本性について吟味する智慧)によって観察をなすというようにして、それらの〔要点の〕全てを実践の段階に応じて編集して教示したものである。それにより、〔アティーシャの教えを学ぶ者には〕全ての教説が〔解脱へと導く〕教授として見えるようになり、それらは最高の教授であるとする確信が起こり、「それらは〔解脱へと導く〕教授そのものではなく、教えの裏面をなぞったものに過ぎない」と考える誤解が余すことなく断じられることとなるであろう。