D2 師事する弟子の条件


作成日: 2010-01-11 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

〔ラマに〕帰依する弟子とは〔アールヤデーヴァ作の〕『四百論』(十二章)で次のように説かれる。

公明正大であり智慧があり探求心のある
聴聞者が彼が「器」と言われるのである
話者の長所が別の姿に変化することはなく
聞き手の場合もそうである。

このように三つの法を具えた人物が聴聞の器量として相応しく、その三つを完備しているならば、説法をする語者の長所は長所として現れるのであって、短所としては現れることはない。それだけではなく、聴聞する者の長所もまた、その人物に対して長所として現れるのであって、短所としては現れない。つまり、これらの特質が完備していなければ、法を語る人である、善知識がいくら清浄な人物であっても、聞き手の側には短所があることによって、〔その善知識が〕欠点をもっている人物であると貶められてしまい、〔その逆の場合には〕解説する人(善知識の)の短所もまた、長所として捉えてしまうのである。このように〔チャンドラキールティの〕『〔四百論〕註』で説かれている。

このうち「公明正大であり」というのは、何らかの主義主張に陥っていないことである。そのようなものがあるならば、そのことが障害となり、功徳を見出すことができなくなってしまうことから、善説の意味を見出すこともないのである。このことは『中観心論』で

主義主張に陥って心を塞いでしまうのなら
決して寂静を証得することはないであろう

と説かれる通りである。主義主張に陥っているということは自分の学説に固執していることと他人の学説を嫌悪していることとの両方である。そのようなものが自分の心相続にあるのか否かを検証して捨て去らなければならないのである。

またただそれだけでよいか、と言えばそうではなく、公明正大であっても善説である正しき道と悪説である誤った道との二つを区別する知力がなければ、器としては不適切であるので、その二つを理解する智慧を兼ね備えていなければならないのである。

またこれら二つで充分かといえばそうではなく、その両者があろうとも絵に描いた法を聞くが如くになってしまうのならば、器としては不適切であるので、探求心をも兼ね備えていなければならないのである。〔チャンドラキールティの〕『〔四百論〕註』では仏法・説法者に対する敬意を払うことと・注意を向けていることとの二つを合わせて〔弟子の条件には〕五つあると説かれている。