D1 師事すべき善知識の条件


作成日: 2010-01-11 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

概して教説とその密意の注釈書では三乗それぞれについて多くのことが説かれているが、ここでは三士の道を次第にしたがって導き、仏道たる大乗へと導く善知識のことを説明する。
これについては『大乗荘厳経論』では次のように説かれている。
¥begin{quotation}
善友はよく律し静寂で寂滅している¥¥
その功徳ははるかに勝れ 勤勉で聖言に富む¥¥
実義を証解しておりその法話は巧みである¥¥
憐れみを本として怠けることを知らぬ
¥end{quotation}
ここでは、十の条件を具えた善知識に師事しなければならないと説かれている。
〔「よく律している」〕自らをよく律していないで他者を律すること無意味であると説かれているので、他者を律そうとするラマはまず自らの心を律しているものでなければならない。それでは、どのように律する者でなければならないのかといえば、何でもかんでも成就して証得の功徳として名付けられる何かひとつが有ったとしても何の役にもたたないので、勝者の教説全体に法るという方法で心を律していなければならない。つまり、三つの学処という宝について限定して、「よく律しており」などと三つの条件が説かれている。
そのうちまず「よく律している」というのは、戒学処のことであり、これは『別解脱経』で次のように説かれる。
¥begin{quotation}
常に努力して乘らなければならなく¥¥
心が落ち着かない手綱をとりがたい¥¥
馬に適したものは 鋭い歯のある¥MigiNakaTn{馬銜}{はみ} である¥¥
別解脱とはまたこのことなのである
¥end{quotation}
と説かれているように、暴れ馬の調教師が良質の馬銜を使って調教する如く、感官がもしも誤った方向へ向かう暴れ馬のように所為の方向へ向かっているのならば懲らしめなければならず、さまざまな努力により為すべきものの方向へと向かわしめる戒律を学ぶことで心という馬を調教するのである。
「静寂である」というのは、そのように善行へと向かい、悪行から退くことを正知・正念することに依っているので、心のなかに静寂な状態となる定の学処が生じている、ということである。「寂滅している」というのは心が可動な奢摩他に基づいて正しい対象を妙観察する慧学処が生じている、ということである。このように三学処によって心相続を調教した証得の功徳のみを具えても充分ではなく、聖言の功徳をも兼ね備えていなければならないから「聖言に富んでおり」と説かれているのであり、三蔵などの多くを聴聞していなければならない。善知識ドムトンパも「大乗のラマがなすべきことを説明するときには、すべての人が聴いて理解できるものを、そして実践する時にも説かれた時にすぐに何らかの役にたち、直接意味をなすものとなるものを教えなければならない」とおっしゃっている。「実義を証解しており」とは、慧学処のうちのなかでも殊勝なものである、諸法の無我を理解しているか、もしくは実義に現前しているもののことを主としていなければならない。これが無かったとしても、聖言や正理によって理解していることによっても〔善知識の条件は〕成立している、と説かれている。
このように聖言と正理に富んでいても弟子よりも劣っていたり、弟子と同じくらいの者では充分ではないのであって、弟子よりも功徳が勝っている必要があるのである。「ミトラヴァルガ」¥footnote{UD.25.5-6 Chapter XXV. k.5-6}にも
¥begin{quotation}
劣っている者に頼るのならば堕ちてゆく¥¥
同じくらいの者に頼るともそのままである¥¥
本物にこそ師事して勝れたものを得ることができる¥¥
それゆえ自分よりもより本物に頼らなければならない¥¥
戒しめ律しており、寂静であり¥¥
智慧が極めて勝れている¥¥
そのような本物なのである¥¥
このような本当の師を頼るのなら¥¥
その本物よりもはるかに本物となるのである
¥end{quotation}
と説かれているからである。プチュンワ(phu chung ba)も「勝れた人々の行状を聴いたときには、それに対して自らも向上心が起こるのである」とおしゃっているし、ターシ(mtha’ bzhi)も「わたしはラデン寺の長老たちに見倣っている」とおっしゃっている。このように功徳がより勝れている者をみて向上心を起こさなければならないのである。
以上の六つの条件は自分自身で得る功徳であるが、残りのものは他者が追随する功徳である。
¥begin{quotation}
牟尼たちが罪を水で洗い流すわけではない¥¥
彼らの手が衆生の苦を取り除くのでもない¥¥
彼らの覚りを他の人へ移すこともできない¥¥
しかし法性の真実を説くことで解脱させる¥footnote{チムタムチェーケンパはチムズーにおいてこの偈がマールガヴァルガ12.10に対するプラジュニャーヴァルマンの註に引用されるとしているが、見当たらないとEnglish Trans.は言う。}
¥end{quotation}
と説かれるように、他者に対して示された誤りなき道を辿ること以外には、罪を水で洗い流したりすることができないのである。
概して教説とその密意の注釈書では三乗それぞれについて多くのことが説かれているが、ここでは三士の道を次第にしたがって導き、仏道たる大乗へと導く善知識のことを説明する。
これについては『大乗荘厳経論』では次のように説かれている。
善友はよく律し静寂で寂滅している
その功徳ははるかに勝れ 勤勉で聖言に富む
実義を証解しておりその法話は巧みである
憐れみを本として怠けることを知らぬ
ここでは、十の条件を具えた善知識に師事しなければならないと説かれている。
〔「よく律している」〕自らをよく律していないで他者を律すること無意味であると説かれているので、他者を律そうとするラマはまず自らの心を律しているものでなければならない。それでは、どのように律する者でなければならないのかといえば、何でもかんでも成就して証得の功徳として名付けられる何かひとつが有ったとしても何の役にもたたないので、勝者の教説全体に法るという方法で心を律していなければならない。つまり、三つの学処という宝について限定して、「よく律しており」などと三つの条件が説かれている。
そのうちまず「よく律している」というのは、戒学処のことであり、これは『別解脱経』で次のように説かれる。
常に努力して乘らなければならなく
心が落ち着かない手綱をとりがたい
馬に適したものは 鋭い歯のある馬銜である
別解脱とはまたこのことなのである
と説かれているように、暴れ馬の調教師が良質の馬銜を使って調教する如く、感官がもしも誤った方向へ向かう暴れ馬のように所為の方向へ向かっているのならば懲らしめなければならず、さまざまな努力により為すべきものの方向へと向かわしめる戒律を学ぶことで心という馬を調教するのである。
「静寂である」というのは、そのように善行へと向かい、悪行から退くことを正知・正念することに依っているので、心のなかに静寂な状態となる定の学処が生じている、ということである。「寂滅している」というのは心が可動な奢摩他に基づいて正しい対象を妙観察する慧学処が生じている、ということである。このように三学処によって心相続を調教した証得の功徳のみを具えても充分ではなく、聖言の功徳をも兼ね備えていなければならないから「聖言に富んでおり」と説かれているのであり、三蔵などの多くを聴聞していなければならない。善知識ドムトンパも「大乗のラマがなすべきことを説明するときには、すべての人が聴いて理解できるものを、そして実践する時にも説かれた時にすぐに何らかの役にたち、直接意味をなすものとなるものを教えなければならない」とおっしゃっている。「実義を証解しており」とは、慧学処のうちのなかでも殊勝なものである、諸法の無我を理解しているか、もしくは実義に現前しているもののことを主としていなければならない。これが無かったとしても、聖言や正理によって理解していることによっても〔善知識の条件は〕成立している、と説かれている。
このように聖言と正理に富んでいても弟子よりも劣っていたり、弟子と同じくらいの者では充分ではないのであって、弟子よりも功徳が勝っている必要があるのである。「ミトラヴァルガ」¥footnote{UD.25.5-6 Chapter XXV. k.5-6}にも
劣っている者に頼るのならば堕ちてゆく
同じくらいの者に頼るともそのままである
本物にこそ師事して勝れたものを得ることができる
それゆえ自分よりもより本物に頼らなければならない
戒しめ律しており、寂静であり
智慧が極めて勝れている
そのような本物なのである
このような本当の師を頼るのなら
その本物よりもはるかに本物となるのである
と説かれているからである。プチュンワ(phu chung ba)も「勝れた人々の行状を聴いたときには、それに対して自らも向上心が起こるのである」とおしゃっているし、ターシ(mtha’ bzhi)も「わたしはラデン寺の長老たちに見倣っている」とおっしゃっている。このように功徳がより勝れている者をみて向上心を起こさなければならないのである。
以上の六つの条件は自分自身で得る功徳であるが、残りのものは他者が追随する功徳である。
牟尼たちが罪を水で洗い流すわけではない
彼らの手が衆生の苦を取り除くのでもない
彼らの覚りを他の人へ移すこともできない
しかし法性の真実を説くことで解脱させる¥footnote{チムタムチェーケンパはチムズーにおいてこの偈がマールガヴァルガ12.10に対するプラジュニャーヴァルマンの註に引用されるとしているが、見当たらないとEnglish Trans.は言う。}
と説かれるように、他者に対して示された誤りなき道を辿ること以外には、罪を水で洗い流したりすることができないのである。