作成日: 2010-01-11 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

【E4 実践することは病の治癒のようなものであると想う】

病人は「もし医者の処方した薬を服用しなければ、病気を治すことはできないであろう」と考えて〔薬を〕服用するものである。それと同様に、説法師に教えられた教誡を実践しないならば、貪欲などを打ち砕くことができないであろう。〔弟子は〕このように考えた上で〔師に教えられたことを〕真剣に実践するべきなのであって、実践もせずに多種多様な言葉を必死になって受け入れるべきではない。

さらに、ハンセン病の患者が切断した手足のために二回ずつ薬を投与したところで何の役にも立たないのと同様に、無始爾来、煩悩という悪い病原菌に冒されている我々が〔師から教わった〕教誡の意味をほんの二回ずつ実践するだけで済むはずがない。それゆえ、〔解脱へと通じる〕道の全ての要素を妙観察智によって考察し、川の流れのように不断の努力をするべきである。〔師チャンドラゴーミンの〕『懺悔讃』に

その〔無始爾来の輪廻〕において常に心が迷乱し、長きにわたって〔煩悩という〕病原菌に冒されている〔我々は長い間にわたって不断の努力をしなければならない〕。ハンセン病の患者が切断した手足のために時折薬を投与したところで一体何になるであろうか。

以上のことから、自分自身を病人のようなものであると思い描くことが非常に重要であり、その〔考え〕があればその他のことも起こるようになる。だが、もしそれが単なる言葉上のものとなってしまうならば、煩悩をなくすために〔師によって〕教えられた事柄が達成されずに、単に聴聞しただけで終わってしまうであろう。それゆえ、せっかく医者を探し求めても薬を服用せずに、薬の処方箋ばかりを有り難がって受け取るならば、病人は病気から解放されることがないのであるが、それと同様のことになってしまう。以上は『三昧王経』に説かれている事柄である。さらに、同書には

私はとても勝れた教えを説いたけれども、もし君が聴聞した後に正しく実行しないならば、病人が薬の入った小袋を持って行った後で自分自身の病気を治せないのと同じである。

とあり、〔師シャーンティデーヴァの〕『入菩薩行論』にもまた、

実際に身体を使って〔私は〕これらのことを実行することにしよう。一体、言葉を述べるだけで何の役に立つであろうか。単に医学書を読むだけで患者の役に立つとでもいうのか。

以上のような理由から「真剣に病気を治療しようという想念を起こすべきである」と説かれている。ここで「真剣に」というのは、善知識に教えられた取るべき対象と捨てるべき対象とを〔注意深く見極めた上で〕実行するという意味である。そして、それを行なうためには〔先に〕よく理解している必要があり、そのためには〔最初に〕聴聞することが必要である。つまり、聴聞した後、理解された必要事項を実際に行なうということ〔が必要〕なのである。それゆえ、聴聞した事柄を能力に応じて適宜実行することが重要である。

そのようにしなければ、死を迎える時に〔自分が教えを〕実践しなかったことを後悔するであろう。役者が〔自分の演技をせずに〕人真似をするだけで終わってしまうことや、砂糖を欲している人が砂糖黍〔の皮〕ばかりをかじるのと同じである。『〔大宝積経〕発勝志楽会』には

愚者は死ぬ時になって『私は実践することができなかった。今さら何をすれば良いのだろう』と言って憂い患い、底知れぬほどに大いに苦しむこととなる。以上が話を喜ぶことの過失である。(…中略…)演劇の舞台に立つ人が〔評論家に成り下がってしまい〕他の主人公の長所を述べるのと同様であり、自身の真剣味が損なわれることとなる。以上が話を喜ぶことの過失である。(…中略…)砂糖黍の皮には少しも味がなく、喜んで味わわれるべき味は内側にこそ存在する。皮をかじる人は砂糖の甘味に到達することができない。話は皮のようなものであり、その意味を考えることは甘味のようなものである。以上のことから、話ばかりを喜ぶのを止め、常に不放逸(取るべきものと捨てるべきものを注意して見分けた上で実践すること)でありなさい。また、意味を考えるようにしなさい。