Last Updated: 2010.01.11

B4 大きな悪行が自ずと消滅するという点での偉大さ

『法華経』や〔『菩薩行方便境界神通変化経』の〕「諦者品」に説かれている通り、仏陀の全てのお言葉が直接的に、または間接的に、覚りを開くための手段を説示しているのだということを分からずに、「一部のものは覚りを開くための手段であるが、一部のものは覚りを開くことを妨げるものである」という前提から〔仏説の中に〕優劣の区別を立て、合理と不合理の区別を立て、大乗と小乗の区別を立て、「菩薩はこれを学ぶべきであるが、これを学ぶ必要はない」という考えの下、〔ある種の仏説を〕捨てるべきものと捉えるならば、教えの放棄〔という悪行を積んだこと〕になる¥footnote{チャムパ・トゥンドゥプ師によれば、小乗仏教を劣ったものと見なす考えも、大乗の経典は仏陀本人が説いたものではないという考え(大乗非仏説)も共に「教えの放棄」という業障である。さらに、師によれば、密教の教えばかりを重視し、顕教を軽視する考えもまた同様の業障に相当するものである。}。そして、教えの放棄という業障は自覚するのが極めて難しい微細なものであると『摂一切細破経』には説かれている。

教えを放棄したならば非常に重大な過失となる。このことは『三昧王経』に
¥begin{quote}
「ここ贍部洲においては、仏塔を破壊することよりも経典を捨てる罪の方が遥かに罪深い。ガンジス川の砂の数ほどの阿羅漢を殺害することよりも、経典を捨てる罪の方が遥かに罪深い。」
¥end{quote}
と説かれている。

一般的に言って、教えの放棄ということが発生する仕方には様々な種類のものがあると見受けられるが、前述のような仕方〔で教えを放棄すること〕は最も起こりやすいものであると思われるので、努めて断じるようにしなければならない。そして、その〔業障〕は既に述べたような確信を得さえすれば断じられるので、悪行は自ずと消滅することとなるのである。その確信は「諦者品」や『法華経』を繰り返し参照して求めるべきであり、教えを放棄してしまうその他の仕方については『摂一切細破経』に基づいて知るべきである。

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