作成日: 2009-09-27 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

【N3 布施波羅蜜を心相続にどのように起こすのか】

身体を受容し慳貪を残りなく克服しただけでは布施波羅蜜とはならない。何故ならば、慳貪とは貪欲の一部に含まれるものであるので、小乗の二阿羅漢でもそれを種子をも含めて断じているからである。したがって与えようとする際の妨げである慳貪たるすべての所有行為を断じただけにはとどまらず、すべての所有物を他者に与えようとする思いを心の底から起こす必要があるのである。しかも所有していることの過失と与えることの利益との両方を修習していることが必要とである。
前者については『月灯経』に説かれるように、身体は不浄であり、命は瀧のように動くものであり、身体であっても命であってもその両者は自由はなく他に左右されるものであるので、自由で自立している我は無く、夢幻の如く虚妄であると観じてそれに対する執着を止滅させなければならないのである。それを退けることなくしては、貪欲の支配下となってしまうのであり、大いなる過失を積集して、悪趣へと赴いてしまうと説かれている。
後者については、『所学集成』で、
¥begin{quote}
このように自らの身体と心は刹那ごとに移ろいゆく¥¥
もしも無常で垢だらけのこの身体をもちながらも¥¥
常住にして無垢なる菩提を得られるというのならば¥¥
無償で得られるということになるのではないだろうか
¥end{quote}
と説かれる通りである。
どのように起こすのかということについては、『入菩薩行論』で
¥begin{quote}
身体だけではなく受容しているものも¥¥
さらには三世の善の一切をも¥¥
一切有情の利益を実現するために¥¥
先延ばしすることなく、与えるべきである
¥end{quote}
と説かれるように、身体、受容しているもの、三世の善根を対象として、それらを一切有情に与えようという思いを何度も修習しなくてはならない。現在は信解も熟しておらず(想像力がないので果があることを)力も小さいので、有情に対し思によって身体を与えても、肉などは実際には与えるわけではない。しかしながら、身体と生命とを与えようという思いを培うことがなければ修習にはならないし、いつまでたっても身体と生命を与えることができないと『所学集成』で説かれているので、今現在からその思いを培わなければならないのである。
このようにして心の底から有情に対して与えるべき食料や衣料などを受容する時に、もしもこれらを利他のために受容しなくてはならないという思いを忘れて自利と混同して受容してしまうのならば、有染汚の堕罪となってしまうのであり、そうした混同はしていなくても一切有情を所縁とする想いを忘却するか、もしくはほかの特定の有情のためにと執着してしまうのならば、無染汚の堕罪となるのである。
それら他者へ廻向したものに対して、他者のものであるという想っていながら自らのために受容するのであれば、偸盗となるのであり、それが一定の基準に達したのならば、波羅夷罪となるのであり、有情が自身の受容しているものを受容する場合に、その〔有情の〕ためであると思い受容するのならば、無罪となることが『所学集成』では説かれている。どのような場合には波羅夷罪となるのかということについては、人趣に対して心より廻向した、それ(人趣)もまたそれ(人趣に廻向されたもの)であることを知り、自らが所有している時に、それが他人のものであると想いながらも、自らのためにそれを享受した場合、それが一定基準に達せば波羅夷罪となり得るということを意図されているのである。
また心の底からの信心によって、布施の対象である様々な無数の法を分別によって化作して、それを有情に与えることをイメージする信解を培うことは、資糧が未だ少ないときには無量の福徳を増大させることであり、これはまた智慧ある菩薩の布施であると『菩薩地』で説かれている。
布施波羅蜜を学ぶときにはまた六波羅蜜を具足したものとして学ぶと強力である。これはまた、声聞独覚の(自己愛にもとづく)作為を律する戒、一切相智の法を信解する忍辱、他者の譏りに対する忍辱、それらをより発展させるために意欲を起こす精進、小乗とは混同したものではない心を集中させてその善を正等覚へと廻向する禅定、布施の対象、布施の行為、布施の受容者は幻の如しと知る般若の六つがそろい行うということなのである。

身体を受容し慳貪を残りなく克服しただけでは布施波羅蜜とはならない。何故ならば、慳貪とは貪欲の一部に含まれるものであるので、小乗の二阿羅漢でもそれを種子をも含めて断じているからである。したがって与えようとする際の妨げである慳貪たるすべての所有行為を断じただけにはとどまらず、すべての所有物を他者に与えようとする思いを心の底から起こす必要があるのである。しかも所有していることの過失と与えることの利益との両方を修習していることが必要とである。

前者については『月灯経』に説かれるように、身体は不浄であり、命は瀧のように動くものであり、身体であっても命であってもその両者は自由はなく他に左右されるものであるので、自由で自立している我は無く、夢幻の如く虚妄であると観じてそれに対する執着を止滅させなければならないのである。それを退けることなくしては、貪欲の支配下となってしまうのであり、大いなる過失を積集して、悪趣へと赴いてしまうと説かれている。

後者については、『所学集成』で、

このように自らの身体と心は刹那ごとに移ろいゆく
もしも無常で垢だらけのこの身体をもちながらも
常住にして無垢なる菩提を得られるというのならば
無償で得られるということになるのではないだろうか

と説かれる通りである。

どのように起こすのかということについては、『入菩薩行論』で

身体だけではなく受容しているものも
さらには三世の善の一切をも
一切有情の利益を実現するために
先延ばしすることなく、与えるべきである

と説かれるように、身体、受容しているもの、三世の善根を対象として、それらを一切有情に与えようという思いを何度も修習しなくてはならない。現在は信解も熟しておらず(想像力がないので果があることを)力も小さいので、有情に対し思によって身体を与えても、肉などは実際には与えるわけではない。しかしながら、身体と生命とを与えようという思いを培うことがなければ修習にはならないし、いつまでたっても身体と生命を与えることができないと『所学集成』で説かれているので、今現在からその思いを培わなければならないのである。

このようにして心の底から有情に対して与えるべき食料や衣料などを受容する時に、もしもこれらを利他のために受容しなくてはならないという思いを忘れて自利と混同して受容してしまうのならば、有染汚の堕罪となってしまうのであり、そうした混同はしていなくても一切有情を所縁とする想いを忘却するか、もしくはほかの特定の有情のためにと執着してしまうのならば、無染汚の堕罪となるのである。

それら他者へ廻向したものに対して、他者のものであるという想っていながら自らのために受容するのであれば、偸盗となるのであり、それが一定の基準に達したのならば、波羅夷罪となるのであり、有情が自身の受容しているものを受容する場合に、その〔有情の〕ためであると思い受容するのならば、無罪となることが『所学集成』では説かれている。どのような場合には波羅夷罪となるのかということについては、人趣に対して心より廻向した、それ(人趣)もまたそれ(人趣に廻向されたもの)であることを知り、自らが所有している時に、それが他人のものであると想いながらも、自らのためにそれを享受した場合、それが一定基準に達せば波羅夷罪となり得るということを意図されているのである。

また心の底からの信心によって、布施の対象である様々な無数の法を分別によって化作して、それを有情に与えることをイメージする信解を培うことは、資糧が未だ少ないときには無量の福徳を増大させることであり、これはまた智慧ある菩薩の布施であると『菩薩地』で説かれている。

布施波羅蜜を学ぶときにはまた六波羅蜜を具足したものとして学ぶと強力である。これはまた、声聞独覚の(自己愛にもとづく)作為を律する戒、一切相智の法を信解する忍辱、他者の譏りに対する忍辱、それらをより発展させるために意欲を起こす精進、小乗とは混同したものではない心を集中させてその善を正等覚へと廻向する禅定、布施の対象、布施の行為、布施の受容者は幻の如しと知る般若の六つがそろい行うということなのである。