2011.09.19

仏教にしかない考え

定例法話会より
渡邉温子/ロサンドルマ

「仏教の他の宗教とは違う特質は何か?」

9月17日に奈良の十輪院で行なわれた法話会。ゲンチャンパはそんな質問から説法を初められました。

「仏教が他の宗教と違う点、それを理解していないと仏教を学ぼうとするのは難しい。以前、ある人が仏教の特殊な考えは、『無常』という考え方だと言ってきたが、それは違う。無常を説く宗教は外道の中にもあるからね」

確かに仏教と他の宗教の違う点を理解していないと、他の宗教ではなく、仏教を学ぼう!という理由がわからなくなる。

「慈や悲も大切な考えだが、それは他の宗教でも説かれている。仏教しか説かない教え、それは無我だ」

確かにダライ・ラマ法王も、思いやりの心は仏教だけではなく他の宗教でも同じく説かれるとおっしゃっている。

仏教にしかない考え方、無我。

「キリスト教やイスラム教などでは、唯一無二で常住で何ものにもよらない神という存在を主張するが、仏教ではない。

無始以来、すべては縁起によって生じると考える。

しかし我に執着することから苦しみが生じる。その苦しみの原因である無明を断ち切らなければならない。

仏とは最初から仏なのではなく、私たちと同じような生き物であり、福徳を積み、煩悩障と所知障を断じることによって仏となられたんだ。それは、賢者が最初から賢者なのではなく、知らないことを学んでいくことによって賢者になるのと同じだ」

仏教では私たち誰もが仏となれる。だからこそ、私たち一人一人が学び、福徳を積むことに努めなければなりません。

「私たちの心はもともと汚れているのかと言えばそうではない。それは私たちがずっといつまでも怒り続けることができない。だから怒りは心の本性ではなく一時的にくっついている汚れだということがわかる。だからそれと同じように、執着も一時的な汚れであるから、努力すればなくすことができるんだ」

確かに私たちは時々怒ることはあっても24時間365日怒り続けることは出来ません。

「全ては独立自存の存在としてない。全て原因に拠ってなりたっている。例えば秋の収穫が、春の種まきを因としているように。原因があるからこそ結果がある。そのように我々に見えているものが見えている通りには存在しないことを理解し、道を進んでゆくことによって輪廻に執着することがなくなる」

秋に稲刈りが出来るのは、春に種を蒔いたから。物を買うことができるのは、それを作る人や売る人がいるから。全ては原因によってなりっている。

「我はあるのかないのか。もし我があるとすればそれだけで成り立つようなものでなければならないがそんなものはない。全てには原因があるから」

私たちが普段揺らがない、堅固な存在であると捉えている我。それが私たちの苦しみを生み出す。

「私たちは今仏教を勉強していますね?だからせめて、理由はよくわからなかったとして、仏教にしかない考え方は「無我」だと言ってください」

そう語られてから、『菩提道次第小論』の講義が始まりました。


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