ケンスル・リンポチェの最期および葬礼について(至十四日忌)


Created: 2012-08-27 Last updated: 2016-09-25 Author:野村 正次郎

khensurlomchod

弊会創立者でもあるデプン・ゴマン学堂第75代管長ハルドン・ケンスル・リンポチェ・ゲシェーラランパ・テンパ・ゲルツェン師の御遷化に伴い、本山にて行われた葬礼の儀に参列して参りましたので、師のご最期および師の廻向祈願の仔細についてご報告申し上げます。

2007年1月の脳出血の発症以来、2012年5月中旬に軽い脳梗塞を発症したこともあり、8月1日に再度フブリ市の病院にてCT-SCANをはじめとする精密検査を行ったが、特に悪いところはありませんでした。

しかしながら長年の片麻痺との闘病生活もあり、体力と気力の両方ともが次第に衰弱されていったとのことです。8月に入ってからも日本との連絡をとり、安心して欲しい旨のお言葉もありましたが、8月5日ころより呼吸がしにくくなったこともあり、死期を覚悟され、古参の弟子を集められ、遺言状を書かれることとなりました。

師の遺言としては、まずは、自分の兄弟は7人くらい60歳くらいで死んでいるので、自分は長生きしたので死んでも特に後悔はないが、昔のチベットでは管長や前管長が亡くなっても特別に鳥葬するだけで大げさな儀式をしないので、大げさな儀式はせずに祈願を読んでくれる各僧侶たちにお供えを配って欲しいという旨、それから自分の化身を探すかどうかはダライ・ラマ法王に一任して欲しいこと、もしも化身を捜索して認定されることがある場合には、再び自坊に迎え、きちんとした教育を施すことを主に言い残されることとなりました。また臨終の際には釈迦如来の真言を唱えて欲しいなどの具体的な死後の葬礼についてご指示をなされました。また日本には女性の信徒も多く、よく泣くので、自分が死に絶えた後に連絡して欲しいとの旨のご指示もありました。

それからすぐに体力が低下すること著しく、8月10日には食事もとらず、話もされなかったが、8月11日は見舞いに来た同郷のゲシェー・テンパ・チョクラン師と若干お話をされた後、執事のペマ・ワンゲルに命じて、「私は釈尊の一弟子なので、釈迦牟尼如来のタンカを視野にはいる場所にあつらえて欲しい」とおっしゃり、その通りにするとしばらくの間それをご覧になられていました。その後、「ゴマン学堂の管長になった時に、ダライ・ラマ法王にサインをして頂いた法王の御写真をかけて欲しい」とおっしゃったので、その通りにするとまた、しばらくの間それをご覧になられていました。その後、法衣(チューグー)と袈裟(ナムジャ)を持ってきて欲しいというおっしゃるので、それを御寝所に置く事となりました。それを最期にお話をされることはありませんでした。

8月12日の昼食時には、執事のゲシェー・ペマ・ワンゲルがスプーンでお食事とお茶、お薬を差し上げるとそれをすべてお召し上がりになり、ペマワンゲルはいつも通りに左半身のマッサージなどもしました。17:00ころの夕食時には、再度差し上げようとすると召し上がりませんでしたので、すこし後で差し上げようとしておりました。しかしながら、18:00ころより丁度軽やかないびきをかくような感じで咽をならされて呼吸をされるようになり、20:00ころよりはそれが荒くなったのでいよいよ最期の時が来たと察した弟子たちは、古参の弟子たちに連絡し、21:00ころには15人ほどの極々身近な弟子たちが終結し、釈尊の御真言を唱えはじめることとなりました。

同郷ゲシェー・テンパ・チョクラン師は、いよいよ師の最期であることを察し、「加持摩尼粒」(ジンテン)といわれるチベット密教の秘薬を師に差し上げ、いよいよ臨終なので誰もリンポチェの肉体に触れないように、そして大きな声をあげないようにと注意を促すこととなりました。

22:00過ぎからは呼吸が更に荒くなり、若干苦しそうな表情もされておられましたが、13日の午前1:00ころよりは呼吸が穏やかになり、音も静かになり、1:30丁度に、深く大きく息を吐かれ、それを最期に息をひきとられ「荒い死」をお迎えになることとなりました。

最期の息をひきとられた後には、2:00より参集した弟子全員でパンチェン・ロサン・チューゲンの『師資相承供養』の修法がなされました。そのまま13日の午前8:00には、ゴマン学堂寺務部に師の遷化を報告し葬礼を如何にするべきかの相談がなされました。

その後、デプン僧院座主シュンパ・ケンスル・ロサン・テンパ師、ゴマン学堂現管長ユンテン・ダムチュー師の二人をはじめとする古参のゲシェーたちが集まり、師の命日は律に基づけば日曜日となるが、日曜日は日が悪いので、月曜日とすること、師ご本人の意志は、簡単な葬儀を望まれていたが、ダライ・ラマ法王ご自身が選ばれた前管長の葬礼を祖末なものにしてはいけないので、ダライ・ラマ法王のご兄弟の先生でもあった、ケンスル・ガワン・ニマ師の葬礼と同じように執り行うことが決定されました。

その後13日午前9:00からはデプン僧院集会殿にてデプン僧院に在籍するすべての僧侶(ロセルリン、ゴマン、デヤンの三学堂の僧侶)約4000名により伝統に則り、『現観荘厳論』および八種廻向祈願の供養が行われました。引き続き午後3時よりはゴマン学堂にて同様の廻向祈願法要が約1700名の僧侶によって行われることとなりました。

14日からは三日間デプン僧院座主シュンパ・ケンスル・ロサン・テンパ師を御導師に、怖畏金剛尊の我入法が勤修され、夕刻から毎日初七日の翌日まで師が所属していたハルドン学寮の学僧約300名により、師の遺言どおり、五大聖典(『量評釈』、『現観荘厳論』、『入中論』、『阿毘達磨倶舎論』、『律経本頌』)ならびにゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパの『了義未了義判別・善説心髄』が読誦されることとなりました。

15日には、ちょうどダラムサラに滞在していた、ケントゥル・リンポチェ・テンジン・ナムゲル師によってダライ・ラマ法王に師の遷化の報告がなされ、その後、16日の午後まで、「トゥクダム」といわれる微細な意識による四日間半にわたる観想修行が続き、その修行を終えられ、午後1:30ころには、その修行を成満されて、他界されることとなりました。

他界された後に残されたご遺体は、すぐにハルドン学寮で師の弟子であるラプテン・リンポチェをはじめとする化身ラマたちによって特別な人物の遺体を供養浄化する金剛薩埵の儀軌に基づいて、香水などで灌仏され、化身のすみやかなる再来を願い、新しい法衣と袈裟を差し上げて、通常のご座処に安置することとなりました。

翌17日(金)には、師の「吉祥なる曜日」(ラサ)である金曜日には、御籠にお迎えし、まずは御自坊の門の前に化身の再来の縁起とするために三礼をし、引き続き、ゴマン学堂旧本堂に三礼すると同時に、ゴマン学堂の僧侶全員によって廻向祈願が唱えられ、デプン僧院座主シュンパ・ケンスル・ロサン・テンパ師を導師とする古参のゲシェーと化身ラマたちによって怖畏金剛尊の息災護摩修法に殊勝な人物の御遺体を火葬する儀軌とを組み合わせて、ご遺体を金剛薩埵から火天、そして怖畏金剛尊へと加持変化させて、供物を注ぎ火葬されることとなりました。

火葬の後には炉を封じ、夜中に野良犬や動物がいたづらをしないように寝ずの番を2名常置しながら、毎晩ハルドン学寮の学僧たちによる読経が毎日続くこととなりました。そのまま19日日曜日には、初七日の法要がゴマン学堂本堂で行われました。

火葬から1週間目にあたる24日には、ラプテン・リンポチェをはじめとする化身ラマたちが炉を崩し、御遺骨を拾うこととなりました。御遺骨のうちの主要な部分は、骨壺に入れ、再度化身の速やかなる再来の所依となるべく、御自坊の以前のご寝所、普段の生活場所、ゴマン学堂本堂の玉座へと迎えられ、師の再来の縁をつなぐために、再来を祝したお祝のデーシル(日本でいう赤飯のようなもの)を配布し、執事のペマワンゲルが曼荼羅供養をし、一連の葬礼の儀が完了することとなりました。残りの御遺骨および遺品のうちの一部は、26日の十四日忌の際に、近郊のカルワール市にお招きし、そのまますこし沖に舟で出た上で散骨されることとなりました。

以上が、ケンスル・リンポチェの最期にいたる過程から、入寂後十四日までの概略ですが、今後、師の弟子を中心にデプン以外のガンデン、セラといった大僧院ならびに上下の密教学堂にて廻向祈願の法要が行われ、最終的には師の御遺骨はゴマン学堂本堂に小さな仏塔が建立され安置されると同時に、残りの御遺骨は粘土と混ぜて、ツァツァと呼ばれる泥仏を作成し、釈尊ゆかりの仏跡の各地に運ばれて、身近な弟子たちによって祈願されて来年8月13日の一周忌を迎えることとなる予定です。