作成日: 2010-07-27 最終更新日: 2016-10-07 作成:事務局

【ケンスル・リンポチェ】

チベット仏教ゲルク派総本山デプン・ゴマン学堂の第75代学堂長ケンスル・リンポチェ・ゲシェーラランパ・テンパ・ゲルツェン師は、財団法人東洋文庫外国人研究員を長くつとめ、現在の日本のチベット研究者を指導し、その後、MMBAの会長として、日本初のチベット仏教僧院を広島で開創するなど、日本仏教史に残る多くの業績を残されています。

khensurrinpoche

ハルドン・ケンスル・リンポチェ
ゲシェーラランパ・テンパ・ゲルツェン師プロフィール

1932年、チベットの首都ラサの近くキナク村に父チューペル・テンジン、母ヤルドの子として生まれる。11歳の時当時8000人以上の学僧が在籍していた、チベット仏教の三大学問寺パルデン・デプン僧院タシ・ゴマン学堂ハルドン学寮ラワンリン(ལྷ་དབང་གླིང་་)にて学堂長テンパ・チューター師(མཁན་རིན་པོ་ཆེ་བསྟན་པ་ཆོས་གྲགས་)のもとで出家。以降、ホル・ゲシェー・ガワン・チュータク(ཧོར་ངག་དབང་གྲགས་པ་་)師に師事し、仏教基礎学・般若学・中観学・阿毘達磨学を学習し修了した。

1959年(27歳)中国共産党のチベット侵略にともないダライ・ラマ法王の後を追ってインドに亡命。亡命後律学を修了した。1967年にチベット仏教における最高学位である「ゲシェー・ラランパ」の称号をダライ・ラマ法王より授与する。以後、伝統に則り密教の学習をしながら、後学のために講義をはじめ、多くの弟子を養成している。1969年南インドのムンドゴットに一時的に復興されたデプン・ゴマン学堂に移り、ゲコー(維那)やゲゲン(教授職)を努めていたが、1979年にダライ・ラマ法王に命じられ、東洋文庫へと派遣され5年間日本に滞在し、研究を続けた。

1986年にダライ・ラマ法王よりゴマン学堂の第75代学堂長(ケンポ)に任命され就任した。1989年に再びダライ・ラマ法王の命により東洋文庫の招聘にて再び来日。以後、東洋文庫外国人研究員として日本全国のチベット学者である大学教授および学生を指導し、『ツォンカパ父子全集科文集』などの編集をし、数多くの学術的成果を産みだすためのキーマンとして働いた。日本へ移ってからはダライラマ法王に「ジャパンゲシェー」(日本の善知識)と呼ばれ、日本人からは「ゲシェラ」と呼ばれて親しまれた。

1996年ふたたびインドへ戻り、デラドゥンにて怖畏金剛の籠行の前行に入る。1999年春よりゴマン学堂に移り、本行に入り、2001年7月成就する。2001年10月ダライ・ラマ14世に命じられ、再び文殊師利大乗仏教会会長として広島を中心に各地にて説法を行い、毎年約半年間日本に滞在した。

2004年8月高野山真言宗牛田広島市東区よりゴマン学堂のスタッフと共に「龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院」を開創し、日本ではじめての正式なチベット仏教僧院を創始した。

2006年11月には、2001年以来交流の深い大本山大聖院にチベットのデプン大僧院にある「見ただけで解脱する弥勒像」といわれるトンドルマの写しを建立し、ダライ・ラマ法王をお迎えし、開眼善住法要を執り行い、チベット・日本の未来永劫の密教の交流を祈念し、ダライ・ラマ法王の日本初の密教伝授となった「両界曼荼羅灌頂会」を主催した。

2007年1月脳出血を患い、片麻痺となるも、以後2009年まで3回に渡り来日し、龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院にて各種の伝授会や説法会にて日本人を対象としてインド・チベットの大乗仏教の紹介を行った。

2010年よりは日本での活動の代理として弟子のクンデリン・ヨンジン・ロサン・ツルティム師をたて、実質的にはインドの自坊に滞在しながら文殊師利大乗仏教会の運営方針や事業計画などについての指導を行った。

2011年2月、デプン・ゴマン学堂の自坊にて日本から来た参拝者を対象にアティーシャの『菩薩たちの宝の環』を講義し、これが日本人を対象とした最後の説法となった。

2012年5月軽い脳出血が再発し数日間入院したが、その後体力が消耗し、8月12日の夕刻より呼吸が困難になったことに伴い死期を覚悟し、自坊に弟子たちを集め、読経のなか8月13日午前1:30静かに息をひきとった。その後、8月16日午後1時ころまで「トゥクダム」と呼ばれる微細なる意識による修行状態に入られた後、他界することとなった。

彼の弟子には現在のゴマン学堂長ケンリンポチェ・ゲシェハランパ・ツルティム・プンツォク師、クンデリン・ヨンジン・ゲシェーラランパ・ロサン・ツルティム師を始めとする多くの勝れた学僧がいる。