2011.04.16

動機と観察

お坊さんたちと話していると、何か行動を起こすときに大切なのは結果よりもむしろ「動機」なんだと強く感じる。

ある日ゲンギャウさんに、ある女性のことを質問した。その女性は、自分が子どもをダメにしてしまったのではないかと懸念されていた。彼女は子どもによかれよかれと思って、いろいろ手助けをしてきたそうである。だが、子どもが成長して成人した時、自分があまやかし過ぎたせいで、子どもを弱くしてしまったと強く感じておられたらしい。
その質問に対し、ゲンギャウさんは、

「そのお母さんは、子どものためを思って行動されたんでしょう?ならばそのお母さんの動機は良いですから、よい業を積んだんです。もしそれによって子どもが悪くなってしまったとしたら、それは子どもの側の問題でしょう」

とおっしゃった。
他にも、例えば、チベットの僧院では、師は弟子にとても厳しく接する。それは精神的なものだけではなく、肉体的にでもある。師が弟子をなぐるという話はよく聞く。一般的に、人を殴る行為はよくない。しかし、師はあくまでも弟子のことを想って殴るのである。慈しみというよい動機からの行為であるからこそ、その暴力は許される。
もっとすごい話では、インドの行者ナーローパは弟子のテーローパに対し、「私に弟子がいるならば、この崖から飛び降りるであろう」と言って、テーローパに崖から飛び降りるようにけしかけ、瀕死の状態に追い込んだ。しかし、それはあくまでも弟子を想っての行為であるため正しいとされる。

行動を起す際に必要な動機。しかし、やはりそれだけではダメで、次にその行動を成し遂げるために深く思惟しなければならない。
私たちは仏ではないので、所化を完全には理解できない。それでも、何かを与える相手がどのような状態であるかを知っておく必要がある。先の女性も、子どもを観察し、何が必要であるのかを少し誤ってしまったのであろう。

東北の震災地には、徐々にボランティアが入ってきていると聞く。他人のため何か行動を起そうとする姿勢は、とても素晴らしいと思う。しかし、ある日社会学の先生の話の中で、

「最近個人で入ってくるボランティアの中には、自己満足のためだけに現地入りして、返って被災者に迷惑をかけている人たちがいるみたいだね」

と、困った顔をされていた。
また、ゲンチャンパも、説法会の時には必ずその場で質問を受け付けられるが、

「私はみながどこまで理解して、どこがわかっていないかがわからないんだ。それがわかれば、もっとためになるのに」

と悔しそうに話しておられた。

説法する相手に合わせて、種々の言葉をお説きになられた釈尊。しかしそのような態度は、凡夫である私たちに容易にできるようなことではない。でも、容易ではないからこそ、何かをするときには相手を観察し続ける必要がある。

誰かのためになろうとするのは、なんだかとっても忙しい。


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