2011.01.13

食べる

「鹿は幸せです」

と、ゲンギャウさん。
茶の間で野生動物を写したテレビ番組を見ていると、ちょうど画面に、雪山をゆく鹿の姿が映し出された。

「鹿は他の生き物を殺す必要はないから、罪を積む必要はないしね」

「でも、ライオンや豹のような肉食動物の方が強いじゃないですか」と答えると、

「ライオンたちは、一日中獲物のことばかり考えて生活している。それは苦しみですよ」

とゲンギャウさん。「じゃあ、私たち人間も苦しいですね。すぐお腹が空くし、ご飯のことを考えないと行けないから」と言うと、

「それは違います。とりあえず今の人間は食料の蓄えがあります。あるものを食べればいいし、ずっと狩りをしていないといけないライオンたちとは違います」

との答えが返ってきた。

「でも、釈尊の時代は今と違いました。ぼろの服をまとい、朝乞食して得た食物を食しながら、法を行っておられました。ご飯があればよし、なくてもよし。食べ物にとらわれることなく、仏教を行うことだけを人生の中心に据えてあちこち移動された」

チベットの聖者ミラレーパなどはずっと山にこもって修行し、食べ物に困ってイラクサばかり食していたため、身体が緑色になってしまったという逸話がある。

「そのような生活が出来れば、もちろん素晴らしいですが、それはとても難しいです」

世捨て人、とでもいうのだろうか。家を捨て、故郷を捨てて、財産を持たず、何ものにもとらわれない生活。とても素晴らしいが、それはある意味、現在の僧侶が集団で生活する僧院生活とは相反する。

「だからせめて、日々の生活の中で悪を行わず、善を行わないと」

ゲンギャウさんは魚と豚肉を食べられない。牛肉や鶏肉も、なければないでかまわないとおっしゃる。

「ある日考えたんです。肉を食べるとはどういうことか。生き物を殺してその肉を食べる。それはとても可哀相なこと。なんてひどいことなんだろうって。だから、出来ることなら肉を食べない方がいいなと思います」

日本では「何でも好き嫌いをせずに食べる」という教育が施されるので、チベットの人が魚を食べないや肉を食べないと言われると、少し不思議な感じがするが、やはりそこには文化的な背景とちゃんとした理由がある。日本に暮らす多くの人は、魚を食べることが罪深いなどと考えたことは一度も無かったのではないだろうか。

昨年秋、ダライ・ラマ法王が広島を訪問された時、法王は海が見渡せる部屋に滞在された。すると、法王の部屋からは桟橋で釣りをする人々の姿が見えた。

「釣れた。あ、また釣れた」

と、魚が釣り上げられる姿が、法王はとても気になられたらしい。そこで、法王は付人の一人を桟橋に使わし、魚の釣られ具合を見にいかせられたそうである。法王はその慈悲から、魚が人間の楽しみのために釣られ殺されることが耐えられなかったのだろう。

しかし、仏教を実践すると食べられない食べ物が増える、というだけではない。

「日本に来た時、納豆を出されて気持ち悪かったです。なんか糸をひいて、腐ったにおいがするし」

確かに、納豆を初めて食べる人なら腐った豆としか思えないかもしれない。

「でも、考えたんです。『納豆は生き物を殺した食べ物ではないから罪はない。それに健康にもいいらしい』と。それから納豆が好きになりました」

と、ゲンギャウさんは納豆をスプーンでぐるぐるかき混ぜ、口に運ばれた。口から糸が伸びていた。


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