C2 行タントラの道の歩み方


Created: 2011-11-24 Last updated: 2016-09-23 Author:事務局

C2には四つ。D1器たる者と為す、D2 器となった後に三昧耶と律儀を浄化する、D3 親近をどのように為すべきか。D4悉地がどのように成就するのか。

D1 器たる者と為す

行タントラで説かれる大悲胎蔵などの曼荼羅において灌頂を得ることで、道を修習する器とする。これもまた水・宝冠の灌頂だけでは不十分であり、五明ともの灌頂を得る必要がある以外の大部分は所作タントラの場合と同じである。

D2 器となった後に三昧耶と律儀を浄化する

根本堕罪は所作タントラの場合と同じであり、所作・行タントラで説かれるこれ以外の三昧耶もまた大部分は共通していると説かれているが、『大毘盧遮那現等覚』(大日経)で正法と菩提心を命を懸けても捨てない、ということ、慳貪や有情を害することなどをしない、ということ、十不善を断じた所学の基盤に住していなければいけない、と説かれている。

D3 親近をどのように為すべきか

D3 には二つ。E1有相瑜伽、E2無相瑜伽

E1 有相瑜伽

外四支念誦、内四支念誦とそのそれぞれに四支分を弱体化させることなく、低誦・黙意誦を為すべきであり、黙意誦の時には、命息の抑制などを行う。

E2 無相瑜伽

本尊の身体などを所縁として止を得る時に、本尊瑜伽と関連した形で空性を修習する。観察と安住とを交互に行い、空性を証解する止観双運を成就する。有相・無相の瑜伽ということの意味は、『真言道次第』で「有相瑜伽とは空性の修習を離れている本尊修習の念誦であり、無相瑜伽とは空性修習を伴っている本尊修習念誦のことを指すのであって、空性のみを修習することを指すのではない」と説かれる通りである。

ある学者(ヤンチェンガロ)が「空性を証解する知を伴っていないもの、伴っているものという〔二つの〕本尊瑜伽が、順に有相瑜伽・無相瑜伽の意味するものである」と説いている。

しかしこれは検討しなければならない。何故ならば、有相瑜伽に先行するものとして空性の修習が説かれるのであって、〔有相瑜伽を行おうとする〕その時に空性を証解する強力な知があるのならば、それに後続する有相瑜伽はそれ(空性修習)を伴っているものであることになるからである。これについては『道次第小論』で「空性を証解する智慧が強力であれば、布施をしたり礼拝や右繞等を為す際に、それらを所縁とするその知は空性証解ではないとしても、その力を有するものとして働いていることは矛盾しない。たとえば座を開始する時に、強力な菩提心を先行させておくのならば、空性の禅定に〔心を〕置く時、その菩提心そのものは無いけれども、それに数えることができるものを伴うことは矛盾していないのである」と説かれる通りなのである。

顕教の教義の「方便・智慧の不可離の様相」は〔確かに〕その通りであるけれども、密教の教義の「方便・智慧の不可離」とはこれだけではないのであって、広大たる本尊瑜伽と甚深たる無自性証解の智慧の二つが、識の単一の個体として、同一時に組合わさった方便・智慧の無差別なものを指しているからである。『真言道次第』では「果の境位で、身体が相好に荘厳された所依とそれに依っている無所縁の仏智との二つは、無差別で同一時に存続しているのと同じように、道の境位でも瑜伽心にとっては、自らの身体である如来の身体の形相として顕現している方便と、その時に自らの心たる法実義無自性を所縁とする智慧との二つは、単一の認識にして無差別な個体であり、同一時に集約される〝方便・智慧の無差別なもの〟となさなければならないのである。」と説かれているのであり、また「所取相が本尊の形相として顕現している無自性証解の智慧そのものが、広大本尊瑜伽心と同一の個体であるけれども、方便と智慧との別々ものものとすることは、別々なものの別異性を排除している〔同一の個体における〕別異孤立体という言説によっているものなのである」と説かれるからである。

したがって、この場合の無相瑜伽とは、こうした甚深・顕現の不二の瑜伽なのであり、空性証解を伴った本尊瑜伽ということだけではないのである。空性修習を離れているからといって、無相定とはならないからである。『タントラ部総論』では「有相禅定を究竟したとしても、それらには、輪廻の根本を断じる直接対治はないので、輪廻の根源を断ち切る無相瑜伽が必要なのである。これを修習する時に、本尊の身体等といった如何なる世俗の形相を修習することなく、空性の観察修習と安住修習に通暁して、口訣の通りに修習をするのである」とあり「無相瑜伽とは、一切法が無自性空であると離一多性などの正理によって確定する決定知の相続を反復修習することなのであり、」と説かれるからである。

これに対してある者が言う。「このような無相瑜伽というこれを主題とする。〔これは〕本尊瑜伽ではないことになる。尊顔・尊手の形相をもつ本尊の身体が顕現していないからである。空性を直接証解する知であるからである」

しかしながら、これは不遍充である。(論理的必然性がない)何故ならば、空性を証解する有分別の正理知の空の基体たる有法が顕現していると主張しなければならないからである。そのように『根本中論大註』と『道次第論』で説かれているからである。参照可能な論拠が多すぎることを畏れ、ここには記さないが、『二諦の解説』に私自身の記したものを参照されたい。

これに対して彼は言う。「このような無相瑜伽というこれを修習する力によって空性を現量において証解する時もまた、顔や手といった形相を有する本尊の身体は顕現しないことになる。あなたの主張命題が適用されるからである」

しかしながらこれも遍充しない。世俗者たる本尊の身体は顕現しなくても、相続を通じて本尊瑜伽であるとするからである。一般に有相・無相の瑜伽のいづれかであるからといって、顔や手の形相を有する本尊の身体の顕現があるということにはならない。何故ならば、この場合に、本尊と空性の瑜伽、風、念誦という四つの瑜伽があるからである。それらを有相・無相の二つの瑜伽にまとめているからなのである。『真言道次第』で「作タントラ・行タントラにおいて、重要な瑜伽には四つがある。すなわち本尊・空性の瑜伽と風と念誦の瑜伽のことである。そこにおける勝義と世俗の本尊瑜伽の二つは、二身を実現する主要なものであり、念誦はそこにおいて修習する本尊の御心を勧請する支分であるので、世俗者たる本尊瑜伽の支分に纏められるのである。風念誦は、〔勝義・世俗の〕両方の本尊瑜伽の確固たるものとさせる支分であるので、両方に配属され、有相・無相の両瑜伽に纏められるのである。」と説かれているのである、

D4 悉地がどのように成就するのか。

剣などの外の実物に基づいて、剣持明などを成就し、内なる身体の住処において、地・水・火・風の曼荼羅を修習することで息災・増益などの業を成就し、文殊師利等を成就することで、彼ら菩薩に頭をなでられたり、善哉、といったことが繰り返し起こる念誦を為し了る時にそれが出現したとき菩提心を失念しない禅定を得られるとこのタントラでは説かれている。それらの悉地の成就の仕方は沢山説かれているのである。