2010.11.06

あいたくて…

今年の6月、横浜で行われたダライ・ラマ法王の説法と講演会。その聴衆の中に、チベット本土から日本へとやってきて、初めて法王に謁見するというチベット人たちがいた。彼らは法王の来日の話を聞いたときから、謁見の日をまだかまだかと心待ちにしていたのだ。

「法王のお写真を見ると、なぜだろう、泣きたい気持ちになるんです」

チベット本土では法王の写真を自由に持つこともままならないような状況である。もちろん法王のお顔を間近に目にしたことなどあるわけもない。そして迎えた謁見の日、彼らは滝のような涙を流し、法王の話に聞き入っていた。

その話をゲンチャンパに話すと、

「そりゃチベット人が法王に初めてお会いするときは、涙を流すより他ないさ」

との言葉が返ってきた。

「私もチベットからネパールへ抜け、インドへとたどり着いて法王に初めてお会いしたとき、涙が止まらなくてむせび泣いたよ」

ゲンやアボさんは高く聳えたつヒマラヤを越えてインドに亡命してきたチベット人である。彼らが命の危険をおかしてまで亡命しようとする理由。その一つは、ダライラマ法王のお顔を一度でも拝したいからだ。

「最初は、インドに行って法王に一度謁見できれば十分だと思ってたんだがね。それが、何度も法王の説法をお聞きする機会に恵まれ、戒律をいただき、気がつけば、南インドのデプンで勉強してたんだ」

と可笑しそうに笑う。

一方、アボさんに、初めて法王に謁見した時の話を聞いてみると、

「それはなんとも言えないです。最初、これは夢かなって思って、でもよくよく考えてみると、やっぱり夢じゃなくて。ほんとに法王にお会いできたんだと思うと、涙が止まらなかったです」

と、やはりゲンと同じような答えが返ってきた。

「あの感覚には、二度となれないですね」

チベット人にとってのダライ・ラマ法王。それはきっと現代の日本に生きる私たちには真の意味では理解できない。もちろん全てのチベット人が法王を受け入れているわけではないのだろうが、それでも、ほとんどのチベット人にとって、法王は国王であり観音菩薩の化身であり、自分たちの民族的アイデンティティーの象徴である。

そのダライ・ラマ法王の来日が目前に迫っている。現代の日本に生きる私たちは、ヒマラヤを越えて法王に謁見したチベット人と同じ感覚で法王にお会いすることはおそらく不可能である。しかし、法王の説法を聞くという、その機会の希有さはチベット人であろうと何人であろうと変わりはしない。むしろチベットの仏教に接する機会の少ない、我々にとっての方が、法王の法を聞く意味が大きいのではないか。

「輪廻と業果」— 法王が何を話されるのか、とても楽しみである。

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