2010.10.02

古びた鍋

南インドのデプンゴマン学堂の敷地内に、ゲンギャウさんの住まいがある。ゲンギャウさんは現在日本に来ておられるので、今は彼のお弟子さんたちだけで暮らしているが、その台所の棚の奥に、古びた大きな鍋がしまってある。その鍋には大きな文字でゲンギャウさんの本名、ロサン・イクニェンと書かれている。

「これは昔、ゲンギャウ先生のお弟子さん二人が同時にゲシェーになったとき、皆にご飯を振る舞うために使った鍋なんです」

と、ゲンギャウ先生のお弟子さんの一人が説明してくれた。当時小坊主だった彼は、その大きな鍋でご飯を作ったときのことをはっきりと覚えているらしい。

「ほんとはゲンギャウ先生は、日本に行かれなくてもいいんです。歳もだいぶ大きいですし、ラダックやマナリで静かに生活することもできるんですから。だけど先生は、私たち弟子のため、故郷のため、そして何より日本のためを思って日本にとどまられておられるのです」

先月大雨で被害を被ったラダック。その生活水準は、高いとは言いがたい。

「昔のラダックはお金がなくても幸せでした。一年のうち夏の3ヶ月だけ農業と牧畜に精を出し、あとの月日はその収穫を食べ、みんなのんびりと暮らしていたんです。物質的に豊とは言えませんが、心に心配がないから、みんな幸せだったんです。それがお金が徐々に生活に入りこみ、古い価値観は追いやられてしまいました。幸せにお金が大きく関わってきたんですね」

ラダックでは「キュ」という小麦粉で作った料理を食べる。基本の材料はうどんと大差ないが、のばして小さく切った麺を、手のひらの上で、きゅっとひっかいて、貝のような形にする。すると煮たときにスープが中に入ってとてもおいしい。だが、一つ一つ手のひらで形を整えなければならないので、作るのにとっても時間がかかる。

ラダックは冬になると雪に鎖され、みな家の中で生活する。冬間の長い時間をつぶすために考えだされた料理がキュだと、冗談半分に聞いたが、それくらい時間がゆるやかに流れていたのだろうと、キュという料理を実際に作ってみて思った。

「ゲンギャウ先生が、日本に仏教を広め、お布施を集めてくださっているおかげで、私たち弟子や故郷のものたちは安心して生活を営むことができるんです」

お弟子さんたちの会話には、いつもゲンギャウさんのことが話題にのぼる。冗談めかした話しも多いが、その言葉の端々に師に対する敬愛がひしひしと感じられる。

「先生はいっぱいの苦労、弟子はいっぱいの幸せ。私たちはダメな弟子ですね」

そう言ってゲンギャウ先生のお弟子さんは戸棚の奥に古びた鍋を戻し、いたずらっぽく笑った。

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